日独伊三国同盟の起源・その2

 

前日のつづき。

通じなかったイタリアの誠意w

 ドイツの中国に対する経済的浸透は、日本との摩擦を引き起こしただけでなく、イタリアを排除する方向で進められていた。そして、イタリアが満洲国への経済進出を図ることにも、ドイツは反対している。一連の動きを受けイタリアは、日中戦争ブリュッセル会議を通じた親日的政策に続き、満洲国を承認することで、政治・経済的に有利な立場を築こうとした。この対応は、ドイツ外務省が満洲国承認の時期を他国に少しだけ先んじる程度で構わないとして、1938年2月20日ヒトラーが最終的な宣言を行なうまで引き延ばしていたのと好対照をなしている。ただし、同じ言い回しで日本外務省も、連盟と加盟国に配慮しながら、イタリアのエチオピア征服を承認することについて、1936年11月まで留保の姿勢を示し続けたのである。
 当初、イタリア側も満洲国承認には躊躇があり、ドイツと一斉に承認する選択を模索した。だが、ドイツ側からは返答を引き延ばされたうえ、イタリアの独自判断に委ねるとして突き放されている。しびれを切らせたチァーノは単独承認を決定し、大仰な自負を日記に記した。「信義を重んじる好意的政策は友好の絆へとつながり、不安定さと優柔不断は我々を友から遠ざける。我々のブリュッセルでの態度は、東京を勝ちとった。」
 チァーノの楽観的認識に反して、イタリア側が日本に期待した「現実」的な見返りは、なかなか得られなかった。ドイツ側は、元首相ルターに満州国華北を訪問させ、さらなる結びつきを深めつつあったが、イタリアの重工業分野における対東アジア進出や伊満協定による経済関係の深化を妨害し続けていた。日本側は、進出を望むフィアットに対し、技術提携のみを認めた五〇〇〇万から二億円のコンソーシアムを提案する一方で、類似の計画を北米にも打診している。
(略)
結局、満洲国承認の経済効果とイタリア側が評価できそうなのは、以前よりイタリアの親日路線を評価していた関東軍参課長東条英機が、100万ドル相当のフィアット製戦車を購入すると約束したことくらいであった。

イタリア激怒

トラウトマンエ作で日本がイタリアを除外したのは伊中関係悪化が原因であると説明されたことから、イタリア側の怒りは心頭に発した。日本側から蒋政権との関係を批判されて、「親日」姿勢へと転換したにも拘わらず、それ自体を問題視されれば、不満が爆発するのも当然であろう。ドイツ将校が対日軍事作戦にまで参加しているという情報が流れていた時期に、イタリア側はブリュッセル会議で日本支持に徹したことさえ評価されなかったことを思い知らされた。
(略)
 他方、日本外務省は、イタリアが日本に好意的となったのは、伊中通商関係の発展がおぼつかなくなり、対日接近を企てたからにすぎない、と突き放した評価を下していた。

イタリアの国際連盟脱退

いち早くドイツ政府は、これを「十分理解し、最大の共感」をもって受けとめると声明する。なかんずく、「ジュネーブは危険で大惨事を引き起こす」として、ドイツが連盟に戻ることはあり得ない旨を強調した。
(略)
 ドイツの連盟復帰を否定する発言が繰り返された背景には、ムッソリーニとチァーノの不安が存在していた。イタリア側は、連盟脱退により孤立を深めた時点でドイツがイギリスに接近して連盟復帰を果たす、という最悪のシナリオを恐れたのである。逆にヒトラーは、満洲国承認や連盟脱退が日独伊三国防共協定と結びつけられて理解されることを望まず、拡大枢軸が西欧からの隔離、さらなるドイツの孤立化を引き起こす危険に敏感となっていた。
 ドイツの宣言を受けて、イタリアは日本に対しても同様の支持を求めた。だが日本政府は、イタリアの連盟脱退について、日本と枢軸諸国の現存する友好的関係を再確認するという表現に留めている。

イギリスの宥和政策の対象

1930年代前半のイギリスにとって、帝国防衛における最大の敵は日本であった。だが、1933年にナチスが政権を獲得したことは、イギリス帝国防衛戦略に大きな転換を迫る。(略)
イタリアとの友好関係は、[極東への最短ルートである]地中海の安全に不可欠な要素となった。他方では、第一次世界大戦が終了して以降、イギリスの敵国と位置づけられてきた日本をいかに懐柔するか、が問われていく。
 たとえば、一般に宥和政策といわれる外交は、主としてイギリスのドイツに対するものと考えられてきた。しかし、1930年代の中盤までは、イギリスが懐柔を試みた相手は、むしろイタリアや日本であり、これが1935年のエチオピア戦争や、1937年の日中戦争によって、対ドイツの宥和政策が本格化していく。それでもイギリス側は、日伊両国がイギリスを直接の攻撃対象とした行動に走らぬよう、その後も対決回避の模索を続けていた。
[そんな微妙な時期に駐英大使となったのがグランディと吉田茂]

グランディと吉田茂

 グランディとはもっとも対立したはずのソ連駐英大使マイスキーでさえ、グランディには一目おいていた。マイスキーの回想録では、グランディのことを率直で頭も切れ、おもしろい人物であっただけでなく、ロンドンにおける「最大の情報通の外交官」と記している(略)
[チァーノ外相により閑職に追いやられかけたグランディは]イギリスの新聞にグランディの召還を惜しむ記事を書かせ、駐英大使の地位を守ることに成功している。ここで往目すべきは、グランディはイギリスの新聞にさえ影響力を行使できたという点である。
(略)
 これとまったく好対照をなしたのは、同じ不干渉委員会に出席していたドイツ駐英大使リッベントロップであった。彼は、グランディのことを、「もしこの世に真の陰謀家というものがあるとしたら、この男こそ、そういう人物である」と記述している。逆に、グランディはリッベントロップのことを、「イギリス人に対して、ロシアのみが唯一真の敵であることを示すためにロンドンにやってきた」と自称する「うぬぼれた陰謀家」と酷評した。実際、リッベントロップは信任状提出の際、国王の前で踵を鳴らしてナチ式敬礼を二度も行なって、イギリスの新聞から顰蹙を買っていた。
(略)
 吉田の反共主義はむしろリッベントロップに近く、中国のみならず日本にも共産主義の脅威がおよんでいる、と繰り返していた。二・二六事件でさえ共産主義の影響であるとイギリス側に説明し、中国への共産主義の浸透阻止を唱えたのである。さすがに当時のイギリス外相イーデンは、日独防共協定は反共の意味しかないという説明について冷やかな態度をとり、「我々は反共十字軍を行なうつもりはない」とコメントしている。イギリス外務省内では、むしろ日本の中国に対する侵略が、中国を共産主義に追いやっているのではないか、という分析もなされていた。反共主義に関する吉田の話は、リッベントロップ並みに執拗であったらしく、「例のいつものお説教」とイギリス側からは辟易されていた様子がうかがわれる。
 ここに見られる吉田の行動様式は、イギリスの指導層を善導、啓発さえすれば、自ずと日本に都合のよい政策転換が得られるという前提に基づいている。他方、グランディはイタリアのようにイギリス各紙が政府の管理下におかれていないことを熟知し、新聞を利用して世論操作を企てたが、吉田はほとんど政府エリートにしか関心を示さなかった。この点、下からの大衆運動により政権を奪取したファシストのグランディと、明治の元老につながる貴族的志向性が強い吉田の間には大きな違いが存在する。
(略)
いずれにせよ、反共主義でイギリス指導層の訓導を試みる吉田の態度は、あいまいで具体性のない「お説教」として、日英交渉自体にまで悪影響をおよぼすことになる。