日独伊三国同盟の起源

1936年初頭の日伊関係

1936年初頭の日伊関係は決して良好とはいえなかったからである。たしかに日伊両国は、それぞれ満州エチオピアへの侵略後、国際的孤立という要因以外に、同盟へ向かうような共通項を見いだすことが難しい。むしろ伊中関係は、エチオピア戦争における国民党政府の対伊経済制裁参加で急速に冷却していたものの、イタリアの対中国軍事援助は、日伊関係において日本のもっとも懸念するところであった。そして、エチオピア戦争をめぐって、イタリアで展開された人種主義的反日キャンペーンと日本の親エチオピア的態度は、両国の関係を一層険悪なものにしていた。

国際連盟

 日本と比較して大きな違いは、イタリアの場合は連盟制裁を加えられながらも、政務型のグランディ、交渉型のボヴァ・スコッパともに、状況判断自体は冷静で、「共産主義の陰謀」論であっても連盟全体の「赤化」をナイーブに争点とせず、ソ連という行動主体のみに対象を絞り、英仏からの協力も期待した連盟批判を展開したところにある。無論、ファシストが主導する反連盟宣伝の内容は、過激な表現を多数ふくんでいるが、外交官のレベルでは、日本の「連盟赤化」非難の方が、より抽象的な「善悪」の二分法に陥っている。連盟脱退をめぐる議論も同様で、ムッソリーニ自身、伝統的外交官以上にその得失を計算して、経済制裁に直面した時点でさえ脱退を引き延ばし、結局脱退に至るのは、三国防共協定締結直後の1937年12月になってからであった。

傍系の外交官・石射猪太郎東亜局長

石射の憂いは深く、近衛首相の議会演説原稿に関し、以下の如く感慨を8月31日の日記に記した。「支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるには最後迄ブッたゝかねばならぬとある。……アキレ果てた非常時首相だ。」さらに彼は、9月に出された延安の共産党宣言を読み、中国の共産化阻止を要求する日本側の軍事的圧力が、逆に中国の共産化に拍車をかけたと述べている。加えて、石射の視野は日中関係に留まらず、華北の傀儡政権樹立が第二のスペインとなる可能性を示唆し、11月の日独伊防共協定がソ連との決定的断絶を招き、英米との関係を悪化させると分析した。彼は、防共協定により独伊両国が「日本の頼み」になるより「日本の墓穴」となる懸念を記したうえで、自嘲的に以下のような記述を残している。「表面的には景気が好い。外務省へ提灯行列があると云ふ。其日暮しには持つてこいの外交である。」

ブリュッセル九カ国条約会議

ドイツは日中戦争勃発後も中国への武器売却を続け、日本からの不興をかっていた。逆にドイツ外務省は、日本が中国の攻撃を防共協定に基づく行動と正当化したことに鋭く反発したのである。むしろ日本の行為は、単なる政治・経済的膨張を意図するもので、結果として中国に共産主義を拡大させる危険があると論難され、ドイツ側は不支持の意向さえ漏らしていた。加えて、ドイツ駐中国大使トラウトマンは「中国人の対日戦争で示した勇気に心からの同情」を表すとまで発言し、イタリアの日中戦争に対する姿勢と異なった対応を示している。イタリアと比べ、ドイツの対中国投資・権益は巨大で、ドイツ外務省もイタリアからブリュッセル会議参加を促されたことに困惑した。
 また、中国へ軍事顧問としてドイツ国防軍から派遣されていたファルケンハウゼン将軍は、イタリア軍使節の影響力を排し、蒋介石の軍事顧問団長に就任していた。彼は前線にこそ行かなかったが、9月にはほとんど毎日蒋介石と食事をしていた、とイタリア駐中国大使コーラは報告している。ドイツは和平が成立すればソ連が中国市場に浸透するのではないかと恐れている、とイタリア駐日大使アウリーティは分析した。それでも、ヒトラーは外務省の見解と異なり、ブリュッセル会議が日本を独伊両国に近づける好機と捉えていた。
 こうしたドイツ外務省・陸軍の対応に日本側は最悪の印象をもち、トラウトマン駐中国大使の召還さえ要求した。だが、ドイツ外務省は日本の要求を拒絶すると同時に、中国側に対してはブリュッセル会議欠席の理由を、出席すれば親日的姿勢をとらざるを得なくなるためと説明した。
(略)
他方、イタリアは、主催国のベルギーから会議が国際連盟と関係ないとの言明を受けて招聘を受け入れた。(略)
イタリア側がこだわり続けたのは会議が連盟システムと連携していないという点で、ワシントン条約の枠組みから逸脱する場合は代表を引き揚げると主張した。そのうえイタリアは、会議が日本へ集団的圧力をかけることに反対し、会議の延期さえ提案したのである。
 しかし、日本側が望んだのは第三国による干渉のない日中直接交渉であり、ワシントン条約ですらなかった。これに対し、中国側は、日本がブリュッセル会議を不要なものと位置づけるために直接交渉を提案してきたと考えていた。実際、日本側はブリュッセル会議が終了すると、日中直接交渉への関心を急速に失っていく。逆に、蒋介石ブリュッセル九カ国条約会議に期待し裏切られ、ソ連の派兵も望めなくなったことから、ドイツの日中調停工作にも関心を示し始める。結局イタリアは、ドイツと比べてはるかに親日的対応を試みたにも拘わらず、会議出席の故に日本からは欠席のドイツより評価されず、中国からは親中的なドイツのような信頼を得られなかった。

日独伊三国防共協定締結

協定交渉中にも、ムッソリーニヒトラーは「黄色人種の帝国」設立に反対のはずである、というミュンヘンの新聞報道が日本へ伝えられていた。これでは日本側の「偏見」を助長する、とアウリーティ駐日大使は本国へ報告している。さらに、ファシスト・イタリアはエチオピア戦争直前に過激な「黄禍論」を喧伝し、日伊関係は一時険悪な状態となっていた。
(略)
[グランディはチアーノ外相宛私信で]イギリスに対伊接近をうながす、もっとも価値あるカードとして日独伊防共協定を使うためには、反英的色彩は避けるべきであるとも付言した。
(略)
日本外務省は、イギリスからドイツヘ乗りかえたと追及されることを恐れ、むしろ協定に反英米の性格がないという点を強調したかった。それ故、当初はドイツとの協議条約交渉を延期し、親独性を弱める意味でも中国が防共協定に参加するよう働きかけたのである
(略)
 グランディが地中海における伊英対立を懸念したのと対照的に、広田弘毅外相は、イタリアが日英間の対立を助長することにより、地中海のフリーハンド獲得を目指しているのではないかと警戒していた。広田の消極的姿勢に業を煮やしたイタリア側は、日本陸軍にも働きかけ、圧力を期待する。
(略)
 ファシスト・イタリア側から日本を見れば、外務省の優柔不断と陸軍の果断さは対比の対象となっていた。とりわけ広田外相については、「意図を知るのが難しく、よく他人の意志で動いた」と評され、「軍の圧力で提案がなされても、圧力に屈したことに思い悩んでさえいない」とアウリーティ駐日大使は報告している。広田外相に関するもう一つの特徴として指摘されていたのは、あいまいな用語を頻繁に使うことを好んだという点である。「日本の極東における安定要因としての使命」、「アジア諸国民との共存共栄」、「平和と一般公衆の幸福に貢献」といった国内でも意味不明な抽象的表現は、外からの理解を得ることは困難であった。
 さらに、近衛文麿首相の態度は深刻な混乱を引き起こしていた。日本側の認識においてさえ、近衛は会議などで積極的に発言しなかったと書かれており、まして外国から見た場合、彼の指導者としての位置づけは不明なままであった。それでいながら、日中戦争勃発以降、発せられる政府声明は、「暴支膺懲」、中国側の「反省を求める」、「国民政府を対手とせず」といった具体性に欠ける過激な言葉に満ちていた。

明日につづく。