陸山会事件検察批判 小川敏夫

著者は菅直人側近だったけど、小沢一郎の件について「見込み捜査」だと検察を批判して、民主党内から「お前は、いつ小沢さんに転んだのだ」とか「いくらもらった」などと誹謗中傷が飛んだとのこと。

 私はこう思う。検察は、虚偽捜査報告書が世に出るとは思わなかったのではないか。検察が出さなければ、誰もその存在を知らないまま終わる。検察が黙っていれば、この問題を人知れず闇に葬り去ることができる。
 しかし、「強制起訴」による小沢氏の裁判が、検事ではなく、検察官役の弁護士によって進められたために、検察の思惑に反して、普通なら出るはずのない捜査報告書が表に出てしまったのではないか。

「在宅起訴」は捜査終結を意味する

[検事が石川知裕に在宅起訴になると説明し、新聞も検察情報から在宅起訴で捜査終結と報じたのに、なぜ石川は逮捕されたのか]
まずは、石川氏を在宅起訴とすることが、単に石川氏の身柄をどうするかという意味だけではなく、もっと重大な意味を持つことに着目しなければならない。
 それは、石川氏を在宅起訴することで捜査が終結するということである。
 現実のその後の捜査の展開は、石川氏の立件から小沢氏の「共謀関係」の捜査へと進展したわけだが、実際、小沢氏にまで捜査を拡大しようとするならば、石川氏を在宅起訴して放置することはありえない。小沢氏の共謀の立証のためには、石川氏から小沢氏との共謀の供述を得なければならないのに、石川氏だけを先に起訴してしまったら、それが不可能になるからである。
 起訴によって石川氏は、被疑者から被告人の立場に変わる。被告人は検察官と対等に対立する立場にあるから、被告人の取り調べはしないのが原則である。検察が石川氏を起訴すれば、検察は石川氏の取り調べが事実上できなくなってしまう。だから石川氏の「在宅起訴」は、その後の捜査が小沢氏にまでは進まないことを意味するのである。
  さて、では何故、石川氏は「在宅起訴」から「逮捕」に変わってしまったのか。
(略)
石川氏の在宅起訴と捜査終結の方針が報じられてから石川氏が同月15日夜に逮捕されるまでの間に生じた、それまでの方針を変更させるような出来事は、小沢氏が検察の出頭要請に応じなかったという事実だけである。石川氏の在宅起訴方針を逮捕へと急展開させる原因となった事情は、これをおいてほかにはない。
 この事実経過から、検察が、出頭要請に応じない小沢氏に対し、検察をナメやがってこの野郎、といった感情を高ぶらせたことがきれいに読み取れる。

検察の妄執により逮捕

石川氏は、逮捕前から虚偽記載と言われている土地取引の日時の問題は、事実関係を認めていた。
 ところが、1月16日付の読売新聞夕刊は、
 〈石川議員 容疑認める〉
 と白抜きの大きな見出しで報じた。石川議員はもともと認めていたのであるから至極当然の成りゆきだが、何か大それたことを自白したような印象である。(略)
[収支報告書の虚偽記載については、小沢裁判の無罪判決の理由の中で]
石川氏には虚偽の記載をしているとの認識がなかったとして、石川氏の虚偽記載罪は成立しないという判断がなされている。
(略)
連日の報道が、その点を曖昧にしたまま、「土地購入資金の原資がゼネコンマネーだった」といったものばかりだから(略)
〈石川議員 容疑認める〉と大々的に報じられると、石川氏がゼネコンからの不正資金を受け取ったことを認めたかのように世間は誤解する。


 石川氏は、在宅での取り調べ時点から逮捕に至るまで一貫して、逮捕容疑となった土地取引の日時関係などを認めていたのだから、検察にとって、石川氏の立件と起訴だけが目的なら石川氏を逮捕する必要はなかった。つまり、石川氏の逮捕が、石川氏の容疑の証拠を固めるためではなく、石川氏から小沢氏の「共謀」を裏づける供述を引き出そうという意図で行われたことを示している。
 一般に、特捜検察が政治家に対する捜査を行い、公表する場合、証拠を固めてから着手し、それから公表する。検察が捜査に着手したというだけで、政治家が被る打撃は計り知れないほど大きい。だから捜査に着手して公表する以上、失敗は許されない。政治家に打撃を与えながら、「立件できませんでした」で済む話ではないからである。
(略)
 しかし、今回の小沢氏に対する捜査では、この原則は守られなかった。起訴するだけの証拠を固めていない中で、無謀な捜査に突入したのである。検察が起訴するだけの証拠を固めていなかったことは、検察自体が「小沢氏の不起訴処分」で捜査を終えたことから明らかである
(略)
 石川氏は、かわいそうに、小沢をやるぞという検察の妄執のために、それまでの約束を反故にされて逮捕されてしまったのである。

虚偽捜査報告書の悪質性

そもそも供述調書とは別に報告書を作成する必要はない。(略)
[捜査報告書の趣旨は]小沢氏への報告と了承を認めた石川氏の供述が信用できるものであること、すなわち小沢氏が嘘を言っているのだと、取り調べの経過を説明しながら強調するものだ。
 ところが、記載された取り調べの状況のほとんどが、実際にはなかった架空のやり取りだったから、虚偽捜査報告書と言われるのである。
(略)
 もともとが「この程度の供述なら共謀を認めたことにはならないから」と言って取った供述を、共謀の最大証拠にして主張する手法もひどいと思うが、その上さらに、嘘の捜査報告書を書いて、供述が真の反省心から出たものであるかのように仕立て上げるというのも、随分とひどい話だ。
 そして、その検察の目論見は見事に成功し、検察審査会は、虚偽捜査報告書の記載を根拠に(略)
石川氏の供述には信用性が認められる〉
 と判断させられている。
 こうした事態に、小沢氏に無罪判決を下した東京地裁の判決は、
 〈その取調べ状況について事実に反する内容の捜査報告書を作成した上で、これらを検察審査会に送付するなどということは、有ってはならないことである〉
 と厳しく指摘しているのである。

虚偽捜査報告書の目的

供述調書をとっているにもかかわらず、さらに同じ内容が記された捜査報告書を作成することは不自然なのである。(略)
 供述調書に記載されていることは供述調書を読めばわかることだから、これを改めて捜査報告書に記載する必要はない。むしろ検察内部のプロ同士のやり取りでは常識であり、それをわざわざ繰り返して記載したという事実は、当局が言う、上司への報告用として作成したという説明に疑問を抱かせる。
 ほかに目的があると見て当然である。
(略)
[捜査報告書から引用]
(略)
 検察内部のプロ同士のやり取りでは、このような素人向けの文章は使わない。
 通例なら、たとえば次のように記載する。
「本職は、供述人に対し、被告人の立場であるので取調べに応じる義務がないことを説明したところ、供述人は任意以下の通り供述した」
 あるいは、もっと簡単に、
 「供述人は、任意以下の通り供述した」
 だけでも十分である。なにしろこの取り調べについて、被告人の立場である石川氏を取り調べたこと自体はまったく問題視されていないのだから、本来はなくてもよい記載なのである。そもそも不必要な記載が、小中学生に説明するかのようなわかりやすい文章で記載されているのはなぜか。
 それは、この報告書が、検察のプロが読むことを目的としているものではなく、また、裁判官や弁護士といった司法関係者が読むことを考えたものでもなく、刑事司法を知らない素人が読むことを想定しているからではないか。
 素人は、どこにいるのか。
 選挙人名簿から抽選で選抜された、検察審査員である。

報告文の「トリック」は、

このようなものである。
 まず、虚偽捜査報告書の108行にも及ぶ検事の説得場面のやりとりから、勾留時の取り調べを石川氏が回想したと読み取れる48行のやり取りを取り出し、さらに「ヤクザの手下が親分を……」の記載部分4行を切り取って「a」とする。
 一方で、5時間10分に及ぶ実際の取り調べの中に出てきた「ヤクザの事件……」の部分を見つけ出し、それを取り出して「b」とする。
 そして「a」と「b」を並べて表記する。「a」と「b」のいずれにも、「ヤクザ〜」という同一の言葉が使用されており、いずれも過去の取り調べを回想したとみなされるから、両者は実質的に相反するものではないと結論づけたのである。
虚偽捜査報告書と録音反訳書を読んで慎重に比較しなければ、その「トリック」に気づくことは難しいであろう。報告書だけを読んでいたのでは、完全に事実を見失ってしまう。
(略)
[田代検事が両者の記憶を混同してしまったのは納得できるという論理は全く通用しない]
 法務検察当局は、虚偽捜査報告書を作成するという失態の上、さらにこれを隠蔽するという不正義を組織を挙げて実行しているのである。

本の残り半分は下記アドレスにPDF化されてる「被告人石川知裕氏に対する取調べ録音データの反訳書」を文字起こししたもの。

議員辞職もできなければ、何もできないですよね。
(略)
田代 (略)虎の威を借りるじゃないけども、小沢先生を盾に、小沢先生の名前を使ってね、まあ、大久保さんですらあれで金もらっているんだから、高橋さんなんかもっともらってるよ
石川 高橋さんはもらっているでしょうね、やっぱ。あんな家建たないもんなあ。
田代 はっはっはっ。なんか今、なんかさ、正義のなんか、ヒーローみたいな形でさ。(略)[新潮に]連載してるけどもね。私はすべて真実を語ります、みたいな。