吉本隆明「アフリカ的段階」とオウム

吉本追悼本なのに鶴見話で盛上がったり、あまり加藤典洋から愛情は感じないw

吉本隆明がぼくたちに遺したもの

吉本隆明がぼくたちに遺したもの

加藤典洋講演&対談から

[吉本隆明]が「アフリカ的段階」というものを設定したいと思った動機は、二つあった。一つは(略)いまのままなら、アフリカは見捨てられるしかない、近代の先進諸国家のおこぼれをあずかり、贈与を受けつつ何とか生き延びるが、それが段階としてもつ内在史としての豊かさ、可能性が開示されなければ、それは悲惨な生存になりおわるしかないだろう。また世界は、またとない母型の存在を取り落とすことになるだろう。そういうアフリカの現状への関心が、これを書かせたのである、と。
 また、もう一つは、「旧約聖書ヨブ記」が与えてくれた示唆」である。「ヨブ記」は、知られているように、神がヨブに理不尽な試練を与える。ヨブが神に抗議する。神は、いや、「自分は天然自然を支配し、自在にあやつって、雨を降らせたり、山をあちらからこちらへ動かしたりすることさえできる。お前にはそんなことはできないだろう。神に抗議などせずに従うべきだ」と、いう。
 このくだりは、レヴィナスなら、他者たる神に対する「人間」の〈遅れ〉が指摘されるはずの場面で、レヴィナスの徒を自任する内田樹さんなども「先生はえらい」、つまり「神の偉さ」を示す話として取りあげている場面です。

 でも吉本さんは、ヨブをそのあとのキリストの登場を予告する人間の登場と見て、逆に神の没落する姿がここにあるのだと言う。「山だって動かすんだぞ」というこの神様の威張りようは、「空疎だよ」って言うんです。そこにこの神のほうが実はだんだん没落して消えようとしていることの予兆が現れている、と。そしてこの消えようとしている神に体現されているのがアフリカ的段階なんだ、西洋の文明の底にもアフリカ的段階はある。

アフリカ的段階について―史観の拡張

アフリカ的段階について―史観の拡張

 

「旧約」そして「新約」といえば西洋近代の始原である。その始原に、さらにそれ以前に存在したものの片鱗が書き込まれていて、それは、あきらかに「天然自然を支配し、自在にあやつって、雨を降らせたり、山をあちらからこちらへ動かしたりすることさえできる」「アフリカ的段階」の神なのだ。「アフリカ的段階」は、アジア、北米、ポリネシアにあるだけでない、当のキリスト教文明の底にもある。「ヨブ記」がそのことを語っていると私には読める。そのことに背中を押され、「わたしは本質的な意味で〈アフリカ的段階〉の設定に確信をもつようになった」、そして本書を書いた、とそう吉本さんはここでいっていることになるのです。
 すると、BC500年の「無限」の登場によって消えていこうとする「始原」の面影が、ここで2500年後の「未来」と向かい合っている図が浮かんでくるでしょう。
 ヨブの「人間性」の前に野蛮で未開の「神」は敗れ去り、それ以後、長い間、人類は永続するもの、無限性の存在であり、概念でした。でも、もし人類も死すべきもので、有限なのだとすれば、人間は死に、人類も死に、これに対し、生命は永続する、という新しい哲学が必要になってくる。というのも、哲学とは私たちの内部の有限なるものと無限なるものとの対話だからです。私たちは、人類なのか。人類でもあるが、それと同時に、生命なのだ、という哲学。そこでは私たちの単位としての「生命であること」の意味が、あらためて問われることになるはずです。
 ところで、それは先に、『心的現象学序説』で、『母型論』で、『アフリカ的段階について』で、吉本隆明が長い間解明すべき領域として語ってきた場所にほかならない。

オウム真理教

 世界はとうとうアフリカをどうする、というところまできた。でもアフリカはどうにもならない。もしわれわれが考え方を根本的に変えるのでなかったら、未来はない。アフリカなどは絶対に足手まといで、この先は先進国からのお情けを受けながら悲惨な生存を続いていくしかない。そのことが目に見えている。「でもこれでよいのか」――吉本さんはそう、考えているわけです。
 これまでのヘーゲル的な世界史観でいったら、アフリカは旧世界として世界史、文明史の埓外におかれている。このままいくなら、希望はない。でも、もしわれわれの世界観、歴史観、人間観というもののほうを根本的に改変し、現在のアフリカに象徴されるもの――アフリカ的段階と概念化しうるもの――にこそ人類の本源としての価値があるというような考えにまで拡張できたなら、われわれのアフリカとアフリカ的なものに対する態度、考え方、さらにアフリカ問題と言われている問題の諸相の解決の仕方をふくめた全体の展望が初めて変わりうるだろう。初めて、次の世界の展開を希望のもてるかたちに構想できるようになるだろう。自分はそう思う。そう思ったことが、『アフリカ的段階について』を書いた動機だと、そう言っているのです。
(略)
ぼくのいまの考えではオウム真理教への関心の動機もまったく同じところから出ている。
 近代的な見方に安住し、そこから「近代」でないものを評価しているだけではだめだ。オウム真理教には修行によって人類生以前の動物生にまで遡及しようというモチーフがある。それが教理と修行要覧のうちに語られている。そしてそこで「「近代」の善悪観だけではだめだ」と言っている。この主張にも広義のアフリカ的段階がある。そういうところから出てきた犯罪を、近代の善悪観だけで、判断してはいけない。その問題提起を受け止めるだけの寛容さを、近代がもつのでなければ近代はいよいよ袋小路に邁進していくだけだ。これが当時吉本さんが考えていたことです、いまぼくのことばで翻訳すれば。

このときのオウムヘの発言で、多くの人が吉本さんから離れたようです。これもいまになればわかるけれども、吉本さんもあのときにそんなに確信があったというのではなかったと思う。確信はないけれど何か「浮かない」。誰も違うことを言わない、というので、「オレが言わなかったらだれが言うんだ」と思って、やはり言ったのだと思う。そのために、すごく孤立した。吉本さんの中でも、「自分が正しい」とわかっているのだったら、「これはこういうふうに考えられる」と言うだろうけれど、自分の中で「浮かない」という感じ以外には根拠がないのでは答えがない。だとしたら、とにかく石をここに置く、というか、一度置いた石を動かさないというしか方法はない。96年の水難事故は、このときのストレスが遠因だったでしょう。そして水難事故から回復して、渾身の力をふりしぼって書き下ろしたのが『アフリカ的段階について』だった。『アフリカ的段階について』は、オウム発言とそこから生じた孤立に対する吉本さんの回答だったのだと思います。
 ですから、今回の原発事故についての発言も、まず「浮かない」という違和感があってなされたんだろうと思う。それは十分に展開されていないとしても、同じ場所から、始原と先端の二方向性という展望の中で、出てきているはずなんです。

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