大西巨人、吉本のマス・イメージ論に面食らうの巻

吉本隆明大西巨人にマス・イメージ論を語っている対談集『素人の時代』について、呉智英が「とりたてて素人の時代を論じたものではなかった」とノンキな事を書いて、大衆マンセーでボタンが……と、延々的外れな批判を繰り広げている本については後日検証する。

素人の時代(大西巨人との対談・1982)

 吉本 ぼくらが考えてる純文学の世界というもの、文壇の世界というものは、どうしても最後はそこにゆきます。そうすると、こいつは本当は滅んじゃったほうがいい。たとえば脇っちょから、必然的な勢いで、大衆芸とか、サブカルチャーとか、大衆文学とかいわれるものが、現在メジロ押しに浸透してきて、相当な水準を実現してますから、周辺ぐらいは解体しているんかもしれません。でも本当言ったら、純文学の中枢のところっていうのは、ちょっと大西さん、簡単には解体しないですよ。ぼくはそう思います。つまり解体しないものっていうのは何なのか。一種の無形の因習が解体しないと思うんです。その因習っていうのは、通俗的な因習が通俗的に現われているなら、別にどうってことはない、誰にも分かるさってことだけど、それはそうじゃなくて、相当高級の装いをもって因習が存在しています。これが一番解体しない核だと思うんです。ぼくはそういう意味合いの反感をものすごく持ってますね。
 つまり、サブカルチャーとか、吹けばとぶような、そういう世界というものにぼくはある程度関心を持つし、ここのほうが自由だって思ってるところがあります。でも文壇の因習の強固さっていうものはぼくは骨身にしみて感じます。その強固さになってきたら、そう進歩的であるとか、保守的であるとか、あんまり関係ないものだと思いますね。

[文学が作者のビジュアルで売れたり、歌謡曲の世界みたいに授賞式で親が泣いたりするようになるのは、いやだなという大西に]


吉本 いまのそういうふうになってきた勢いっていうものね。大西さん、ぼくはね、資本主義っていうのは何か分からんけど、新しい未知の段階に入った、それは一つの兆候だって見てるところがあるんですよ。だから、これはもう必然だって思ってるところがあるんですよ。これはよくちゃんと評価把握しないといけないように思ってます。
(略)
文学、あるいは文学者っていうものが、あんまり俳優と違わんように見られる状態になっていく勢いの中に、いい悪いとかかわりない、それはある新しい段階があるんだっていう理解をぼくは持ちます。だから、これは未知の現象だぜ……
(略)
素人であろうと、玄人であろうと、みんな同じじゃないか、大して違わないじゃないか、ボタン一つ押せるか押せないかっていう違いで、素人がいつだって玄人に回るとか、そういうことっていうのが出来るようになったっていうことじゃないか。そういう意味合いだったら、これはちょっと新しい段階に入ってるということじゃないかと
(略)
[村上春樹の]こんどの作品[『羊をめぐる冒険』]は質的にも現在的な意味も[前二作とは]違うんです。(略)
この人はテレビ・タレントと同じような教養と、同じ知識を、つまり歌の作り方とか、曲の作り方とか、そういうのと同じ作り方を、踏みながら、本来ならばあるところで質的に止まるはずのものをもっと高度なところまでやり切った、こう思うわけです。
(略)
本来なら、この作品はマンガと同じものだという方法的な自覚から出発して、たいへん高度な作品のところにもっていってると思うのです。これは大江さんの作品とか、中上の作品とは意味が違う。それでいて高度なんです。

「新しい段階」は文学、芸術そのほかの文化現象で総体としていえば、「視えはじめた境界に近づくほど強い斥力」の表象ということになるのではないでしょうか。だから形式としてはジャンルの解体を体現した、そして内容としては「境界」に近づけば近づくほど反撥力で押しかえされる停滞感、行き詰まり感、崩壊感という感覚内容を表象するはずだとおもいます。
(略)
歌手なんかがちょっとテレビのオーディションかなんか受けたら、うまいし、顔もいいから、少し訓練して売り出したら、何かいっちょう前に歌ってたっていうのと、何か書いてたら、いつの間にか芥川賞もらってた、そういうのが同じことになってくる。
大西さんはお嫌いでしょうが、大西さんが小説書いて、本を作ったら、それがテレビのコマーシャルに出てきた。見てる者がちょっと関心持って、ボタンを押したり大西さんの顔も必ず出てきて、すぐ分かる。あ、そうか、こういう顔をしてる人が書いたのか。そういう具合に必然のようになると思ってます。
(略)
ある個人の作家がいい作品を書くには、少なくともその時代に対して、風俗の表面ではないところで、どっか通わせてるっていいますか、本質的に関わっています。この関わり方が、より本質的であるほど、それはいい関わり方であるし、またいい作品はいい作品だ、文学は永遠普遍にいいものはいいんだっていうものと、一番よく一致するのではないでしょうか。一番よく一致した作品は、必ずその作者が、自分の時代とは、風俗的な意味でなくても、本質的な意味で一番よく関わっている。だからいいものはいい、そういう本質的な歴史の中にちゃんと入って行くということなんじゃないでしょうか。
(略)
村上春樹の『羊をめぐる冒険』の場合でも、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』の場合でも、かなり無意識にそれはしてる、つまり無意識にこの人の関わり方はかなり本質的な関わり方だというふうな気がするんです。

[おまけ]
農本主義ファシズムじゃないのよ、という話はこの対談の数年前だったのか。

[太平洋戦争の評価、またそれを体験した重さの評価]
ぼくの場合にはドイツ・イタリア風の社会ファシズムというものと、日本の、天皇専制君主みたいに置いた農本主義の考え方、農村に平等な、理想的な共同体を作ろうみたいな、そういう農本主義とは別なんだっていう問題としてありました。その後の花田清輝さんとの論争でも、ぼくはそういう言い方をして、辛うじて自身の戦争体験の意味を救いたいと思いました。つまり農本主義者が考えようとしたことを、まるまる頭から否定するっていうことは出来ないんだぞっていう心情を、そういう言い方でぼくは擁護してきたように思うんです。ぼくがこの問題をほんとに分かったっていうふうに思ったのは、ここ数年前のように思うんです。数年前にレーニンを読んで検討し、マルクスのロシアについての考察を読み返しみたいなことをやってきて、はじめて、じぶんが固執してきたその問題を論理的に納得しました。マルクスは、農業共同体みたいなものが強固に残ってる農本的な国家の中で、農民を主体みたいな形で、政治革命とか、あるいは改革とかをかんがえればかならず専制君主を頂点に置いて、これはいいんだ、われわれの理解者だけれども、中間にいる君側の奸がダメなんだ、こういう考え方をとることになる。必然的にそうなるんだということをマルクスは言ってるんですね。それでぼくは初めて、戦争体験のところで、どうも納得出来ないとおもってきた、マルクス主義的といわれているものが、農本主義に対して、ファシズムとして片をつけている問題が、論理的に、理念的に、氷解したように感じたんです。本当に数年前ですね。