吉本隆明が語る戦後55年

前日につづき、あれをファシズムとすることにずっと引っ掛かっていた吉本隆明という話。

60年安保闘争と『試行』創刊前後

(1995年インタビュー)

[60年安保闘争で]僕が一番論じたのは、これは初めての独立左翼の運動だというのが一番のポイントで(略)
反米愛国でもなんでもなくて、日本資本主義が相対的な独立を遂げたということだと認識していました。
(略)
マルクス主義の言葉と概念を使うと、「日本の独占資本主義が独占性を強化しながら、アメリカに対抗できるくらいに成熟してきたぞ」という理解になっちゃうんです。
 それで僕のなかが満たされたかというと、そうでもないわけですね。そこで満たされなかった問題が、丸山真男を筆頭とする、戦後の進歩的な思想家、社会学系の学者たちに対する批判になっていったと思います。
(略)
丸山真男天皇ファシズムと言いますけれども、どちらにしても、この人たちは日本の軍国主義に対する本当の規定ができていない。(略)
 規定ができていなくて、それを前提にして、日本の超国家主義天皇ファシズム天皇制絶対主義を言っている。それは不服である(略)
「日本の天皇制がファシズムに近いとするならば、どういうファシズムなのか」をちゃんと規定しないと困るのだということが批判の眼目でした。
(略)
 その規定ができていないところに、中ソ論争があって、国境紛争がその前後に起こっている。(略)
[中国・ベトナム戦争他の社会主義国同士の戦争や対立が起こり]
アジア地区におけるファシズムと呼ばれるもの、天皇ファシズムとか、農本制ファシズムとか、天皇軍国主義についても、明瞭な理解なしに、それを超国家主義へとひとまとめすることは不当なことじゃないか、ということです。それが僕らの進歩的な学者や共産党系の学者に対する批判でした。
 それを突き詰めていくと、社会過程と政治過程はまったく違う過程だとなります。つまり、高度な資本主義というのが非常に反動的なシステム、ファシズムとか、もっとひどい、神聖帝王と結びつくことも一向におかしくないわけです。だからこそ、いわゆるマルクス主義の考え方はインチキだと思うんです。
 ロシア・マルクス主義は社会過程と政治過程を対応関係で考えますから、資本主義という高度な社会システムの下における政治形態は、それが天皇制だとすれば、その天皇制には高度な要素があるんだと言わなくちゃならなくなるんです。しかし、社会過程と政治過程はまったく違う過程ですから、社会過程が高度だからって、政治過程にもそんな高度な要素があるかどうかは別問題なんです。社会過程として非常に高度でありながら、政治過程においてはまったく古めかしい神聖帝国的なものであっても理論的には何らおかしくはないし、いくらでもありうることなんです。それくらい政治過程と社会過程を切り離してしまえ、ということです。

「理念と実践の一致」への不満

先ほど、山本さんは、61年ごろに僕が「大衆に通じない面の意識化が大事だ」という話をしたと言われました(略)
[当時の政治運動している]人たちが一番強調することは、毛沢東の『実践論』が特にそうですが、「何かを行わなければ理念は本当になっていかない」ということです。(略)
僕はそれに対する不服があったんです。「お前は何かを実践せよ」という言い方、たとえば政党や宗教の組織で言えば、それは「機関誌を売ることから始めよう」となるわけでしょう。(略)
インテリゲンチャは大衆のなかに入っていかないと、理念に目覚めない」というのは嘘じゃないかという疑いをもったわけです。
(略)
インテリゲンチャにとって、もし、実践ということを言うならば、自分がやっている専門のこととか、仕事でやっていることが、その人にとっての実践になると思うんです。
[農業やったり工場で働くことじゃない]
(略)
だから、「お前のやっていることは大衆とどんな関係があるんだ」と言われたら、「俺のやっていること自体が大衆と関係ある。やっていること自体の他に、大衆と関係を持つことはできない」と、今でも答えるだろうと思います。
(略)
「大衆とつるまなくてはいけない」とか、「やさしく言わないといけない」とか、それはまったく嘘なんですね。「大衆にわかるようにやさしく」と思ったときに、その人の思想はだめになります。

ナショナリズム

山本 上山春平氏がちょうどこの頃、吉本さんと丸山真男さんを並べて、「土着ナショナリズム派・吉本」という言い方をしました。それに対し、吉本さんは「世界性を通じないと、大衆の原像には近づけないのだ」と言われており、その世界性が『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』のところで、見えてくるのだと思います。
吉本 上山さんの『大東亜戦争の意味』は、僕は実感としてはすごくわかるんですね。同じ年代ですし、あの人は海軍の将校なんかをしていた人だから、そういう体験を情念的に生かしたいというモチーフはわかります。だから心情的な共感はあったんだけれども、やはり、「ちょっと違うな。僕はこういうことをいまさら言いたくないな」というところもあって、その両方があったんですね。
(略)
梅原猛さんは一種の奈良・平安朝的文化主体でナショナルなものを国際的に出そうとしているわけです。それは僕とはちょっと違う、そこでナショナルなものを言われちゃうと困っちゃうなと思います。僕としては奈良朝以前のことで言いたい、あるいは現在以降のことで言いたいんで、そこで違っちゃう。

農業問題

マルクスエンゲルスが農業問題について言及しているのを読みますと、「俺たちが革命政府を作ればアメリカの農産物の欧州市場への安価な圧倒的な流入は防げる」というモチーフなんです。(略)
案外インターナショナルじゃないな」と思うわけです。つまり、欧州第一主義で、欧州が衰退したら困るんだという考えが根本にあって
(略)
 だから、僕は今でも農業問題は柳田国男が一番いいと思っていて、マルクス主義はだめだと思っているんです。つまり農業というのは、作っているやつが自分だけ食べて、余ったら売り飛ばす。自分たちで共同に私的な経営をやって、自分たちで作って、自分たちで食べて、余ったものは小売り業者などに直接売って生活する。そういう形が一番いいんじゃないか。これは、柳田国男が言っていることと同じです。
 マルクス主義がだめなのは、農業が大規模な資本主義経営になるというわけですが、確かにそうなりますけれども、それは過渡的なものであって、それから先にいった段階では、私的な農業協同経営体の経営問題になり、中間の流通と販売の経路は資本主義事業のようにでなく、もっとあっさりしたものにする。そういうのがいいんじゃないかと僕は思います。

村上一郎

 村上さんは、敗戦直後に「無条件降伏には反対だ」という軍人が決起する時の勢いで精神的高揚に達して、その時、あの人は軍服姿に剣をさげて、市ケ谷に行ったんです。門のところの守衛に止められて、「俺は元・海軍中尉なんだ。知り合いだから、知り合いのところに行く」と言ったけれども、そこで止められてしまった。
(略)
[欝気味だったところに三島事件。三島特集でテレビ局に呼ばれた際、あれこれ指図され本番直前に喧嘩になり帰宅]
 奥さんに言わせると、「村上はそれ以来、黙りこくって、動かなくなった」そうです。それで「それから何日も経たないうちに、私がお使いに行っているうちに死んでしまった」と話しておられました。(略)
村上さんとしては、「自分が敗戦の時にしようとしたことを、三島さんはやったんだ」というのが、三島さんの市ケ谷乱入事件に対する解釈なんではないでしょうか。「だから、自分は加担するのだ」と考えたんだと思いますよ。
 村上さんは戦後少し経ってから共産党に入って、安保闘争まで党員だったはずですから、「イデオロギー的に違うのではないか」ということがあるわけですけれども、そこは村上さんにはとってはそれほど重要ではないところです。要するに、「近代日本にとって、最も革命的であって、最も重要であったのは軍部である」というのが、あの人の考え方にありますから