吉本隆明 わが「転向」

 

吉本隆明のみ、インテリゲンチャにあらざるが故に、大衆についての解釈を許されている。これが吉本大衆神学である」とかなんとか書いてる呉智英の吉本批判本をいつになったら検証するのと言われそうだけど、吉本の本をチェックしてると全然終わらないのである。
1994年70歳頃の文章。バブル崩壊で不況の時代。文藝春秋とか週刊プレイボーイwに掲載したものを改稿。老骨に鞭打って「軽チャー」wに対峙する姿に「おれだけがわかってる」なんてところはないと思うけど。

  • わが「転向」

ちょっとハメられたけどまあいいや(苦笑)なあとがき。

本の最初のインターヴュは、編集部の質問の条項をすべて消去した形で雑誌に掲載された。そのためまるで供述書といった文章のスタイルが取りのこされ、おまけに“わが「転向」”という表題がつけてあったので、あたかも大物の左翼が転向声明を発した戦前の崩壊期左翼の状況を再上演しているかのように受けとる向きが一部にあらわれた。
(略)
[わたし自身は]多少おやおやという感じがないでもなかったが、文体がそれなりに通りよく流れているので、事実誤認の個所だけは訂正して、編集部の意向を尊重した。

大衆

 左翼性との関係からいえば、かつてブントの幹部だった西部邁さんが、六〇年安保を振り返った『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』の中で、マルクスなんて読んでなかったと言ってますが、存外、左翼性と学生運動との関係には、そんな呑気なところもあったんではないでしょうか。
 西部さんの本に「大衆」とか「民衆」といった概念がまるで出てこないことには驚きました。「なるほど、この人の左翼性は、大衆との関連から出てきた左翼性ではないな」と初めて理解できたんですよ。これはもしかすると、全学連の幹部の一面を象徴しているのかもしれません。もっと拡大して言えば、知識人の左翼性を象徴しているのかもしれません。だから、現在の西部さんが一種の頑強な保守性を意図的に強調するのは、あの時代に、「大衆」に対する意識が落ちていたことに対するコンプレックスが尾を引いてるのかもしれません。きっと彼がいま一番嫌いな言葉は、「大衆」だと思いますよ。
(略)
僕が旧来の「左翼」思想と訣別したところがあるとすれば、「大衆」と呼ばれてきた層が、日本の社会の中枢を占めるようになったのではないかという認識から始まった、と単純化して言っていいぐらいです。
 80年代に入って、60年から80年の間のどこかでとても顕著な日本社会の大転換のピークがあったと思えてきました。
(略)
[80年代に登場した]彼らの書いたものは軽文学と言ったらいいか、深刻なところが何もないし、もちろんイデオロギーには固執するほどの関心もなく、スイスイ感覚をひろげている。
 しかも文字表現を主体にした知識や教養と、映像や音楽に基づく知識や教養がほぼ同じ重さに扱われていたことも不思議でした。
(略)
 文学、映画、テレビと、全てにわたって軽さ、明るさの感性が充満してきた、こうした新しい世代が発生した理由をどうしてもつかめませんでした。彼らがどんどん出てくるような社会の基盤は一体何か、ということが気になってきたんです。
(略)
 それまで僕は、太宰治の小説『右大臣実朝』にある「人間というのは暗いうちは亡びない、明るいのは亡びの姿だ」という言葉が好きで、それに固執し、そこを掘り下げていけば大丈夫だと思っていました。しかし彼らの明るさ、軽さを「亡びの姿」で片付け、きちんと分析をしなかったなら、この時代では使いものにならないように思えてきたのです。
(略)
60年から80年の間のどこかで、[ロシア的「左翼」が重視する]「農村と都市の対立」「農業と工業の対立」は主要な課題からずり落ちてしまったのではないかと思えてきたのです。
(略)
 まず72年をピークにして、第三次産業の従事者の人数のほうが第二次産業よりも多くなってきます。また、ミネラルウォーターが初めて壜に詰めて売られ始めた。実はこれはとても象徴的なことで、マルクスの『資本論』の基礎になっている経済認識は、空気や天然水はとても大切で使用価値は大きいが、交換価値、つまり値段はないということで象徴されます。ところが天然水が製造工程を経て商品として売られることによって、交換価値を生じました。
(略)
共同幻想論』が、共同体のあり方を過去に遡って論じてみたとすれば、『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』は、現在から未来への共同体のあり方を把握しようとしたものです。
 多分、そこが旧来の左翼と僕らの分かれ道になったのです。それは旧来の左翼の「都市資本主義を肯定し始めた」という僕への批判にあらわれました。エコロティズム、ナチュラリズム、科学技術の単純否定、反都市、反文明、反原発の主張というように、旧来の左翼はこの時期から退化、保守化に入っていきます。(略)僕の問題意識はいい悪いの問題ではない。要するに工業と農業との対立がいまの社会の主要な課題だと思っている考え方はもうダメだ、ということです。
 ですから、僕は「転向」したわけでも、左翼から右翼になったわけでもない。旧来の「左翼」が成り立たない以上、そういう左翼性は持たないというだけです。だから僕は「転向」したと言われても一向に構いません。
(略)
[9割が中流だという現在からすすんで]
九割九分に文句がないという社会は、あまりにも不気味ですから、もしかすると社会システムがうまく働かなくなるかもしれないと思います。第三次産業過半数を占めた結果、様々な社会変化が起こったように、たとえば第四次座業化というような我々には予期できない要素が出てくるかもしれません。
 そのときには、ロシアから始まった発想ではない、全く違った条件を持った左翼性が必要になる可能性があります。その時代まで僕が生きているかどうかは全くわからないんですけどね。

  • 日本における革命の可能性

[個人消費の半分以上が選択消費に当てられるように]
 この変化がいったい何を意味するのか? それは、従来の資本主義が生産本位のものであったのに対して、現在の資本主義はむしろ消費本位とも言うべき産業形態に再編され、高度化した、ということではないかと思います。この高度化した資本主義を、僕らは超資本主義、あるいは消費資本主義と名づけることにしています。
(略)
従来、価格というものは生産コスト、人件費、減価償却、それに適正な利益を基本にして、あとは市場の需給関係で落ち着くところに落ち着くと、今までだれもが信じてきました。たとえば僕が書いた本に一万円の値をつけるなんてことは、間違ってもできなかったですね。
 ところがバブル以降、実体的な価格の信憑性が失われてしまった。製造過程から決まってくる値段には、一定の限界があるはずだったのに、それを超えていくらでも高くできるし、安くもできるということに、初めて消費者は気づいてしまった。
(略)
国家の歳入を、選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていていいのか、と。しかし僕は逆だと思う。選択的だからこそ、これにウェイトをかけていいのですよ。なぜなら、国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を加減できるからです。
 早い話、今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです。(略)もっと言えば、日本における革命の可能性が一つ増すということ、それはつまり民主主義の度合いが高まるということでもあります。
(略)
僕は、ソ連国家社会主義だからダメだったんだ、国家を閉じた社会主義だからファシズムになってしまったんだ、と考えます。いつでも民衆のリコールが成り立つという自由の可能性を一切絶っては、社会主義もへったくれもない。むしろこれからは、理想的な社会主義と理想的な資本主義はクロスオーバーしていくだろうと思っています。
(略)
 近い将来、九割九分の日本人が中流意識を持つ日、今の社会システムではダメなんだ、対応できないんだ、次の段階に行けないんだということが、もっと明瞭に顕在化していくと思いますよ。(略)経済的にこれ以上、何を付け加えればいいのか、どうすれば次の段階に行けるのかという問題にぶつかりますね。その時、「これは困る」という勢いに押さえつけられたら、一度に爆発するかもしれませんし、徐々にうまくシステムを変えていくことで対応するかもしれません。しかし、いずれにせよ、これまでの社会システムは死に近づき、終わりが見えるということははっきりしていますね。
(略)
 僕自身、これからの日本のような先進地域の有り様をイメージした場合、あまりウキウキした感じにはなれないんですが、新しい倫理観というものを自分なりに形成してゆくという課題に、少しずつ近づいてゆくほかないと思っています。

都市から文明の未来をさぐる

 都市が人の欲望を刺激し、吸引する。その同じ欲望を、農村はまったく味方につけることができないでいます。(略)もしここに取り出される形以外の欲望がありうるとすれば、それならばエコロジー的な退化を基にしても、社会主義的な理想が成り立つかもしれません。一国の国民生活を農業で全国的に賄おうとか、食糧の自給自足化をめざそうとか、そうしたスローガンも実現するかもしれません。しかし、そんなことは初めから成り立たないと思っています。
(略)
文明は、欲望が通りやすい通路を選んで発達してきました。都市も欲望を充足させやすい形で拡大していきます。この発達のスタイルは普遍的です。都市としての東京は、農村と対立する意味での歴史的な都市から、現実の形而上化、つまり像空間としての都市(超都市)の方向に変貌することは言うまでもないことです。
 人間のこの抜き差しならぬ欲望の形を見間違えたら、どんな理想でも成り立たないと思います。
(略)
ランドサットの視点から見れば、「人間」なんて実にお粗末な、空虚な観念です。人間の内面性も同じことです。ゆくゆくは廃棄処分になるというのが、これからの人類の末来じゃないですか。
 視線の高度をぐんぐんと高めて、無限遠点へもってゆく。そうするといろんなものが見えてきます。たとえばエコロジーの党派が叫ぶ、緑の重要性についても、無限遠点から見ればかなり怪しい。彼らの緑は、あくまで都市との対比における緑なのであって、原型的な緑ではないということです。結局、重要なのはあくまで「人間」なので、緑はあくまでその反射的価値を持つにすぎないわけです。
 そうではなくて、いったん「人間」を消して、緑そのものを見ることはできないか。無限遠点に視点を高めるというのは、いったん人間の効用から森林を切り離して、無文明の立場に自分を置いて、そこから眺めなおしたときに、何をすることが本質的なのか考えることです。「人間」はいずれにしても、将来、ゼロに近づいてゆくのですから。
(略)
「人間」の観念が変われば、それにつれて、善悪観・倫理観も変わります。コンクリート・ジャングルは人間性を疎外する、こんなの息苦しくってしょうがない、だからできるだけビルを取っ払って、地面を土に帰し、緑を増やそうという発想は、旧式の「人間」の観念に引きずられた発想です。「人間」の実体の中に「自然」を求める発想です。そうではなくて、「人間」の実体なんかないんだ、現実の「異化」しかないんだよという発想にシフトすれば、ビルが建つのは決して悪ではない。緑が欲しいのなら、ビルの中に森林を造ろう、それでいいということになりますね。

 無責任なことを言うようですが、僕がもし文藝春秋の社長だったら、この不況下で文藝春秋を業界一にしてみせます。方法は簡単明瞭です。
 まず給料を上げる。それから残業費を上げる。残業を減らすのではなくて、無理のない程度に上げる。そして本を今までより多く出す。もし残業アップが非人間的たというなら、出版界は夏と冬が暇だから、このとき一斉に休暇を取れるようにすればいい。僕だったらそうします。そうすれば文藝春秋だけ、一気に不況脱出です(笑)。
(略)
清貧なんて持ち込んで消費を抑制して、企業が残業費を節約したってしょうがないわけです。
 文藝春秋だって、痩せても枯れても第三次産業です。(略)[給与・残業カット等で]節約したら、そりゃ帳簿上では黒が出るかもしれない。でもそんな黒、いくら黒を重ねても、会社は潰れます。だって後は際限なく縮小するしかないのですから。
(略)
 いいですか、消費と生産の規模を全体的に大きくしない限り、先進国は不況から脱しにくい、これは世界経済のイロハです。
(略)
 勿論、石油ショック自体の意味も重要です。この意味は何かと言いますとね、今まで先進国の経済的ポリシーが世界全体を支配し、リードするという信憑性を崩してしまったことです。後進国がどんなに自主独立だの第三世界だのと言って結束しても、この公理はびくともしなかった。それを引っ繰り返してしまった。そして、価格の信憑性自体も揺らいでしまったことですね。もとをただせば石油の価格を決めたのは、石油そのものの使用価値ではなくて、先進国と産油国との力関係だった。それを産油国が結束して引っ繰り返した。
 これには先進国は皆、びっくりしたわけです。こんなことは経済学の公理上、絶対にありえないと信じ込んでいたからです。一種、幻想と現実が転倒すると言いますか、いや転倒するどころか、現実を離れて勝手に浮遊し始めたという感じがしましたね。
(略)
[都市の中心にある後楽園の上下するゴンドラに乗って周囲を眺めると]
境界のない風景があったんです。オモチャのジェットコースターが、現実の町の中ヘスーッと入り込んでゆく風景です。ジェットコースターとタクシーやバスが並んで走っているのが、一緒に見えるわけです。後楽園と背景の街並みが重なって、境界がなくなっている。ジェットコースターが、街中の高架道路の延長のように見える。逆にタクシーやバスが、遊園地の中のオモチャのように見える。実物とオモチャと、異なる現実の次元がねじれてしまっているのです。
 この光景が暗示しているのは何かと言えば、それは石油ショックの意味と同じように、いわば幻想が現実を無化するということです。これは政治革命ではなくて、リアリティの革命、イメージの革命です。ではこの革命は、政治的な意味を持たないかというと、そうじゃない。〈権力〉を無化する一つの手掛かりになると思います。

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

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マス・イメージ論 (福武文庫)

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