吉本隆明 《関係の絶対性》

存在交換と絶対言語 一九六〇年代までの吉本隆明/瀬尾育生

《我々は存在そのものが既に倫理的な実体であることを知る》
(略)
《僕らは精神のはたらきを倫理のうちにはたらかせるとき、如何に生きるべきかといふことを解きつつあるのだといへる。ここでいふ倫理とは決して道徳律をさすものではない。ほんたうに深くされた精神はわけても正義や道徳の匂ひをきらふものである》
《僕は後悔といふ魔物、その親族である宗教的さんげを嫌ふ。且てキリスト教を堕落せしめた要因の一つは、キリスト・イエスにおける自己嫌悪としての悔ひ改めを、慰安としてのそれに転落せしめたことである。自立を依存に、独立を隷属にすりかへたことである》
(「初期ノート」)

 繰り返し語られるのは、人間の存在がただ存在しているというだけで、何に根拠づけられることもなく、また何かによって根拠づけられるということそのものにさからって、そこに倫理を発生させているということ――「存在倫理」ということである。
(略)
 思想はすべての教義や教条や負い目や疚しさから自由になることができる。およそいかなる至上物の問責からも自由になりうる――もしもその思想が、「関係」というものの本質をその核心に織り込んでいるならば。 ――これが《関係の絶対性》という言葉で語られている原理である。「関係」とは、主体が内的な判断にもとづいて選択的に取り結ぶようなものではない。「関係」は主体の意識にとって絶対性として現れるなにものかであり、問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物ではありえない。「関係」は人間の存在論的ありようのなかに組み込まれており、政治的・社会的領域もまた、主体の内面性や意識を通してではなく、この存在論から直接に生い立っているからである。

契が齎す疚しさに拮抗する/長原豊

[ちぎりがもたらすやましさ:引用者によるフリガナw]

あいつもこいつも
賑やかな奴はみんな信じられない
どうして
思想は期望や憧憬や牧歌をもって
また
絶望はみみっちい救済に繋がれて提出されねばならないか
[初期詩篇「一九四九年冬」]
(略)
容易に動くことがないかに観える社会的輯塊――「関係の絶対性」――に成り代わって表象、さらには代位するとさえ称する奴儕――「観念の絶対性」――へのこの苛立ちが、この吉本を貫いている。
(略)<思想ごときに人間の生の意味づけを保証させてたまるか!>と僕には読める、またそのように読む他ない
(略)
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と語って「奇蹟」の制度化を嗾す悪魔に「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と応ずるイエス(略)吉本はこの問答をドストエフスキーが「神との直結性の倫理」と人間の生が「踏まえねばならぬ現実」との比較考量とそのきっぱりとした「撰択」という「悪魔の問いの本質」を顕示するものとして読んだと理解するが
(略)
吉本は、悪魔の問いが、「神の口」を「理神論的にうけとる」限り、したがって「人間が生を現実につないでいる限り、決して消えてしまわない」という、後のいわゆる「関係の絶対性」の「観念の絶対性」――「言葉」あるいは契――に対する優位に求めた。であればこそ吉本は、ドストエフスキーを倒立させて、第一の問答に以下の改釈を与える。曰く、神の「言葉」は


人間が生きてゆくために欠くことのできない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆に、人間が生きるためにぜひとも必要な現実的な条件が、奪うことのできないものであることを認めたのである。つまり、悪魔の問いがよって立っている根拠をくつがえしたのではなく、かえって、それがくつがえし得ない強固な条理であることを認めたのである。
[マチウ書試論]

(略)
「人間の現実的な条件とは別なところで、神の倫理を自立」させ、人間の生の意味を「現実的なもの一切から隔離」することで、「現実的な秩序から圧迫され、疎外されたものが、心情のなかに逃亡」するに当たって「人間の実存の意味づけ」を「現実から心情のなかに移」すことを赦す――あるいはむしろ、強いる――「思想の型」を具備する契と成ることを意味するからである。またこの純化−粛正が、吉本にとっては、悪魔の誘惑よりも「危険な誘惑」を以て応えたという意味で、新たな契はむしろ悪魔の誘惑に「近づ」いたことをも意味したからである。
(略)
旧い契の核芯の一つであった「人間の絶対的な内面の倫理」を「神との直結性の意識」によって担保する信が「現実の秩序」との衝突によって揺らぎ、「悪魔の問いの原則」に立って人間を支配する「教権というバベルの塔」が「人間と神との間に関門のように立ちふさがった」とき、マチウ書の「悪魔の問いは真理として実現」されるがゆえに、「言葉」としての契が疚しさを「倫理の純化」として制度化することの意味を顕揚する、フーコー的な権力制度論があった。
(略)
吉本は、「罪という概念」を作動軸として「倫理の純化」を導入した旧き契の「ロギヤを倫理的に受感すること」においてさらなる「純化」を「求め」る新たな契に、「人間性の弱さを、現実をおいて克服することのかわりに、陰こもった罪の概念と、忍従をもちこ」むという、失敗を定められた契への下属が齎す疚しさを契において操作する、権力的機制を看て取ったのである。
(略)
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と「反逆の倫理」を説くイエスに、「現実の秩序を構成している人間の連帯感にたいする鋭い性急な対立」あるいは「性急な倫理」性を探り当て
(略)
こうした「現実」を否認することでのみ成り立つ「架空の幻」にすぎない契への「性急」な帰一要求にもとづく「反逆の倫理」ならぬ「反逆の倫理」的強制を「秩序と[の]和解」によって「思想と実践との」一致の契機を喪ったマチウ書における「天につば」する契であり、それは定められた疚しさによってのみ支えられる「信心深い侏儒」の「大騒ぎ」に墜落する他ないと断ずるのである。
 だが、とすれば、マチウ書における疚しさに衝迫される「反逆の倫理」的強制とは異なる、吉本の「反逆の倫理」とは何か? それは、次に触れるように、秩序であれ、反秩序であれ、いずれにせよ秩序をめぐる「関係の絶対性」への「加担」を、契あるいは「観念の絶対性」との距たりを以て、「社会倫理」的に受諾する、「だらしない」反逆である。

「関係の絶対性」 についての誷想/最首悟

 「関係の絶対性」が出てくる文脈は「人間が人間に強いる関係」で、その強制はほとんど越えがたい壁や溝となって立ち塞がる。
(略)
「関係の絶対性」については、見田宗介は当然のごとく「関係の客観性が生み出す感情の絶対性」としている。
 「考え」で言えば党派性ということである。党派性は越えられるのか。「こちら側」から「そちら側」へ観念は移動したと思うのに下部構造のカセははまっている。それを振り払うのにはどうしたらいいのか。
(略)

「ひとりの文学者としてのわたしは、社会的に無用の長物であることによってのみ意味をもち、無用の長物であるがゆえに、あらゆるものを否定することによってしか、存在の理由がないのである」(一九五九年、東大新聞、『異端と正系』)

「こちら側」から「そちら側」をいつの間にか越えてしまったようで、それゆえにこそ絶望せざるを得ない「人間と人間が強いる関係」が立ちはだかって、「関係の絶対性」が異様に出現する。「無用の長物として否定しかない」という態度はそのあとにやってきた。
 「関係の絶対性」が「人間と人間が強いる動かしがたい関係」の言い換えであるはずがない。まして「観念の絶対性」でもなければ「関係の客観性」でもない。
(略)
「関係の絶対性」の異様さは「関係の総体」のどうしようもなさ、自分が身動きすると世界も身動きするそのブヨブヨ感の寒気を予感したものではなかったろうか。
(略)
「無用の長物として否定しかない」意識を生み出す「関係の絶対性」のもう一つの道は、原理的にほどきようのない、「内」しかない世界だった。それは閉じていて、そしてどのように閉じているかが見えない世界であったのである。「自分らしく」を追究してついに「自分」を屹立させる世界でなく、「自分らしき」ものが茫洋とそこに翳んで、溶け込んで、そこに一人の胎児性水俣病患者が浮かび上がる。どのようにも動くことが出来そうでどうにもならない、どうしようもない絶対の世界である。

共同幻想論』 読解の試み/高橋順一

 本書が最初に出版された1968年当時、『共同幻想論』というタイトルから、本書を、「国家は幻想にすぎない」という形で国家をラディカルに無化した革命的な本であると、極めて単純に理解した能天気な左翼がいっぱいいた。だが本書における幻想という言葉は、虚偽・架空という意味での「イルージョン」と解されてはならないのだ。吉本のいう幻想過程とは、私たち人間において現実的・物質的な生存過程からある必然性をもって生じる逸脱を通して形成された一個の余剰(過剰)領域、言い換えれば私たち人間がこころや感情、意識を持ち、それに基づいた自己了解の構造を自身の存在の内部に産み出してしまうことに根源的には根ざしている、人間存在の物質性・客観性には最終的に還元することの出来ない領域を意味している。
(略)
国家が個々人の心的な過程を国家に向けさせ同化させるための、言い換えれば個々人の心的な過程における内的な自己了解の次元に、国家という共同性の次元が相互媒介的に重ね合わされ、国家の共同性が内発的かつ自発的な服従=了解の構造へと溶かし込まれてゆくための媒体が不可欠だからである。その媒体こそが幻想的な共同性であり、だからこそ国家の本質とは幻想的な共同性に他ならないのである。
 だとすれば、「国家は幻想にすぎない」ではなく、「国家は幻想であるからこそその支配は強固であり、その力はあなどれないのだ」というべきであるはずなのだ。そして国家の現実的な本質性がなぜ幻想的な共同性として現出するのかという問題を徹底的に追求すべきなのである。吉本が『共同幻想論』のなかで論じようとしているのはこの問題に他ならない。