ネトウヨさんのための吉本隆明

呉智英が、吉本隆明は民主主義原理主義者なのだ、と書いてる本を、それでいいんすかね、と後日検証するので、その前に、ネトウヨさん受けしそうな、尖閣諸島だの、戦争中の〈残虐行為〉だのについての、吉本の文章を引用してみる。
1981年に呉が封建主義宣言wする10年前に「サベツ用語狩り」についてこのように語っているわけだが。

情況への発言(1970.10)

差別を喰いものにしている男たち

 この世界に『差別構造研究所』というのが存在するのをはじめて識った。津村喬という男がそれに所属するらしい。この世界にある一切の差別を喰いものにしている男たち。(略)この男の倫理的支柱は、階級的・種族的差別の被害者を擁護しているという自己ギマンだけである。しかしかれがほんとうに擁護しているのは、この世界に〈禁忌〉を存在させることだけである。だからかれ(ら)にとって、もっとも重要なのは〈コトバ〉であって実体ではない。
(略)
 この世界に禁忌とすべき〈コトバ〉などは存在しない。〈コトバ〉に禁忌が存在すべきであるという幻想を振りまいたものは、天皇制と〈部落問題〉屋だけである。いっぽうは法権力をつかって禁圧し、いっぽうは、もともとじぶんの所有ではない〈正義〉をつかって、気の弱い知識人たちの倫理感を脅迫して禁忌とした。

情況への発言(1971.10)

〈差別の観念〉が共同性の位相で存在するためである

曰く、サンカ部落、曰く異族と俗称されてきた〈へき地〉の村落。これらはすべてが差別さるべきどんな根拠ももっていない。しかしながら、これらの特殊部落の内部では、長老によって外来者や新参者は逆に警戒され差別される構造をもっている。そしてその度合に応じて、これらの特殊部落は、外部から差別される。この差別は経済的な窮乏のためでもなければ、人種が異なるためでもない。その意味ではどんな根拠もない。ただ、〈差別の観念〉が共同性の位相で存在するためである。しかるがゆえに共同性の位相で、このいわれない差別を揚棄しようとするものは、じぶんたちの共同性のなかに〈差別〉を固定化している一半の責任があるという自明の理に覚醒すべきではないか。お人好しの進歩インテリを脅していい気になっている自らの組織の腐臭に気付かなければ、救いようはない。

情況への発言(1975.11)

言葉狩り

「めくら」、「びっこ」という呼び方は盲目だとか身体的に障害をもっている人間が現実に存在するから生みだされた言葉である。この〈現実に存在する〉対象と、それを指示する呼称の言葉とが対応する次元では、「めくら」を〈盲目者〉といい代え、〈びっこ〉を〈歩行不自由者〉といい代えても、まったく無意味である。これは岡庭のような頓馬が「小使い」を「用務員」といいかえ、「女中」を「お手伝いさん」といいかえ、「びっこ」を「足の不自由な方」といいかえることが、まったく無意味なのとおなじである。また岡庭という男が、高々、対応心理の問題にしかすぎないものを、社会的な差別や、政治的な抑圧の問題にすり代えているのがナンセンスなのとおなじである。
(略)

この次元では、どんな階級的支配者も、PTA婦人も、個人としては「めくら」とか「びっこ」とかいう言葉で、肢体不自由者を指示できないような仮構の平等感覚をもつようになったことが問題なのだ。NHKでさえ用語規則を打出さざるを得ないほど、心情的差別を仮構に拒否している市民社会のフィクションとしての平等感が問題なのだ。
(略)
まったく恣意的に、個人的に、また高々、地域的特殊性としてあらわれるにすぎない、心情的な、感性的な〈差別〉や〈偏見〉の現われ方を、用語(言葉)をだしにして、いちいち目くじらをたててつつきだし、あたかもそれが、全市民社会的(つまり社会階級的)、全国家的(つまり政治階級的)な問題であるかのように錯覚しているのだ。
(略)
用語(言葉)の摘発や、新造語によって〈変りうる〉社会的諸関係は、たかだか個人的、特殊的、地域的なものにすぎないこと、そして〈変りうる〉範囲といえば、政治制度と経済社会構成とが、その内部での個人的、特殊的、地域的な感性の揺れを許容する範囲に限られることは論をまたない。岡庭のような男は、この範囲内で揺れたり矛盾したりする個人的、特殊的、地域的な問題を、あたかも政治的、あるいは社会的に普遍化しうるかのように錯覚しているもののうち、もっとも始末に悪い頓馬のひとりたるにすぎない。

情況への発言(1969.3)

正義の言動

[内村剛介への書簡]
急進的な学生たちの行動は、きみたちを支配している政治理論はまったく駄目なものだなどといってもおさまりがつかないにちがいありません。理論的に正しくなくても、いや正しくないからこそそれに賭けるのだといったことは青年期の人間の行為のなかにはいつも存在しうる動機だからです。また失敗するにきまっていることに全身を投入するということも人間にはあり得ることです。わたしも正義の言動をするときには内心でチリチリ焦げるような恥ずかしさをいつも感じます。またもっと若年だったころ正しいことをやったり言ったりする奴が嫌いで仕方がなかった時期がありました。政治的な行動としては外側からどんなに単色にみえたり、ヘルメットの色分けの種類だけの派閥に色わけされるようにみえようとも、青年は青年に特有の奇怪な内部世界の論理をもっており、その奇怪さは想像を絶するものだというようなことは、じぶんの若年のころの内部の情景をすこしおもいおこしただけでも充分推測することができます。そこでは生半可におれは急進的な学生たちの心を理解できるというようなポーズはとりようがありません。また、そんな暇はないといえばそれまでのことです。わたしは、わたしの場所と陣地で死ものぐるいのたたかいをいどんできたし、これからもそうするでしょう。
 ただ、わたしはベトナム反戦運動とかベトナム平和運動とかいうものより、大学紛争のほうが〈好き〉です。また、理論的ラジカリズムはあまり〈好き〉ではありませんが、行動的ラジカリズムは〈好き〉です。そして、これらの〈好き〉には、わたしなりの論理づけをやることができます。そういう意味で、大学紛争における急進的な学生たちのたたかいぶりを〈好き〉だということができます。

情況への発言(1972.2)

他国に侵入した軍隊は、その〈残虐行為〉の方法を、その国の支配者が、自国の貧民に加えた〈残虐行為〉から学ぶ

 中共を訪問した左右の政治的な、経済的な利権屋たちは、口を揃えて〈日本人民〉を代表し、戦争中の〈残虐行為〉なるものをお詫びをすることになっている。そして中共はこういうペテン師の言辞をどうきいていることになるのか。いい気な猿芝居である。他国に侵入した軍隊は、その〈残虐行為〉の方法をどこから学ぶのだろうか。丸山真男の考究では天皇制を頂点とする無責任体系の末端の兵士たちが、天皇の名に許容され、そういう行為をほしいままにしたことになっている。しかし、わたしはそうはおもわない。他国に侵入した軍隊は、その〈残虐行為〉の方法を、その国の支配者が、自国の貧民に加えた〈残虐行為〉から学ぶものであるとしかいえない。中国の軍閥が貧農にたいして加えてきた〈残虐行為〉や、中国の古代からの支配者が、その人民に加えてきた〈残虐行為〉の伝統なしには、日本兵士の中国人にたいする〈残虐行為〉の方法はありうるはずがない。かくして、わたしたちは、戦争中における日本兵士の中国人民にたいする〈残虐行為〉が提起されるたびに、日本の支配者が日本人に加えてきた〈残虐行為〉の歴史的蓄積と、中国支配者が中国人民に加えてきた〈残虐行為〉の歴史的蓄積との、二つを提起されることになるのだ。

情況への発言(1973.6)

井上清は、中共尖閣列島は中国のものだ、などと、おおよそ社会主義の何たるかを知らない民族主義の何たるかを知らない民族主義を露骨にむきだした声明を発するや、尖閣列島が中国に帰属するという結論を得るために、日清条約をほじったりしている。また、石田郁夫のようなトンマなトップ屋に乗せられて、尖閣列島は中国領だ、などという声明を発している。いったい、どういう頭の構造になっているんだ。中国は、数千年来にわたって、日本列島も朝鮮半島も越南(ベトナム)も、モンゴールも、中国のものだと主張して来た。

情況への発言(1972.6)

[永田洋子の手記を読んで]
かれらが、組織の共同性の規範を、〈家族〉(私有財産)および〈個人〉の規範を包含するもの、と考えるほどに、赤色デスポチズムを徹底化させてしまっていることは、国家から追いつめられた情況のなかで、この種の惨劇を必然化させた理念的な根拠であることはうたがいない。この理念的な錯誤について、現在の世界の〈左翼〉イデオロギーは、いずれも自由ではありえない。
 もうひとつ根本的に問われていることは、〈死〉をふくむ権力とのたたかいのためには、〈死〉をも罰則としてふくむ組織的な〈規律〉が必要であるという〈論理構造〉そのものの問題である。

かれらの理論が、すべて〈わたしは抑圧されている人民のために、差別されている人々のために、たたかいます〉という〈暖かい〉心情論理から、一歩も出ようとしない未開なものであるという意昧でいうのだ。〈抑圧されている人民〉とはなにをさすのか、〈差別されている人々〉にたいする個人的な倫理感や同情心と、〈差別〉を共同性として、政治運動の問題にするときとはどうちがわなくてはならないのか、またどうちがうのか、というようなことについて、自らに問いを発し、疑義を提出し、それに自ら答えをつくりあげ、というような〈冷たい〉論理にむかう思考の過程を、まったく停止していることが問題なのだ。この種の幼稚な毛沢東の〈心情論理〉を、これまた幼稚な中南米ゲリラ指導者のゲリラ戦技術入門書と結びあわせ、つくりあげた〈規律〉に呪縛された集団が、いわば無限の心的な退化にむかうことは必至である。

情況への発言(1973.6)

 年頭、テレビの歌謡番組を視かかっているとき、連合赤軍森恒夫が独房で自殺したことが報じられた。司会の前田武彦は、芸能アナウンサーが紙片をみながら、それを知らせおわったとき、〈この連中は死ぬときまで嫌味だねえ〉と口走った。一瞬、時間が尖り、そして次の瞬間には、新年歌謡番組おあつらえの雰囲気にかえった。しかし、前田のような男に、一瞬、〈私怨〉を想起させ、芸能界の寄生虫である分限を忘れさせた、だけでも森恒夫の死は〈嫌味〉ではない。人間は他者の、党派は、別の党派の、思想にたいして拒絶反応を示す自由をもっている。このことを、どうすることもできない。政治的思想は、党派と党派とのあいだの憎悪によって、また、党派内部の憎悪によって、大半のエネルギーを消滅させて、自死にまで至ることも、どうすることもできない。なぜならば、こういう関係の内部では、人間は他者と、党派は、別の党派と、絶対に平等だからだ。実践が理念にたいして優位なのでもなく、一党派が、他の党派にたいして優位なのでもない。また、その逆でもない。絶対に平等なのだ。芸能ガキを相手にタクトを振るのを商売にしている前田武彦にも、森恒夫の、新年おめでた最中の自殺を、〈嫌味だ〉という権利が、絶対的にある。しかし、この権利は、商売自体が〈嫌味〉である前田武彦の存在を、なにも正当化しはしないのである。