吉本隆明1968 鹿島茂・その2

 

前日のつづき。
ザクザク引用してるので意味とれなかったら、実物にあたってください。

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

  • 作者:鹿島 茂
  • 発売日: 2009/05/15
  • メディア: 新書

転向論

 まず、吉本が第一のジャンルとしたインテリゲンチャは、「知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくる」につれ、「自己疎外した社会のヴィジョン」を持つようになり、「日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくる」のです。つまり、見ているのに見ないという状態です。(略)
[拷問に屈しなかった共産党員が、上京してきた母親を見た途端、故郷の風景が蘇り]
「理に合わぬ、つまらないものとしてみえた日本的な情況が、それなりに自足したものとして存在するものだという認識」が生まれるのはこの瞬間です。(略)
自分は母親によって象徴される家郷的なるものを何一つとして直視せず、「本格的な思考の対象として一度も対決」してこなかったことに気づくのです。そして、家郷的なるものが、それなりに平和な秩序を持って存在している(自足している)のは、「日本封建制の優性遺伝的な因子」、つまり、それとは意識されぬほどに構造化された一君万民的な原始天皇制によって貫かれていると悟った瞬間、それこそ、コトリと音が聞こえるほどぶざまに「転向」が行われてしまうのです。
 では、吉本隆明はこうした日本インテリゲンチャに特有の転向をみっともないものとして全面的に批判しているのでしょうか?
 じつは、そうではないのです。なぜなら、彼らは少なくとも自分たちの「思考法に封建的意識の残像」があることを半ば意識していたという点において、まったくそれを意識していなかった人たちよりはマシだと吉本は考えたからです。
 この「まったくそれを意識していなかった人たち」というのが、吉本が批判する第二の日本のインテリゲンチャの典型です。
(略)
第ニのタイプは、外見は日本人でも、その意識、その頭の中身は「無日本人」[←鹿島による造語]なのです。(略)
 こうした無国籍の「無日本人」にとって、ヴァレリーやジッドやサルトルの文学や思想が、十九世紀・二十世紀の成熟したフランス・ブルジョワ社会の構造という時代的・風土的な制約によって生み出された結果としての「想像力、形式、内容」であることはまったく意識に入ってきません。あたかも、物理や化学の受験勉強をする受験生が、本来たび重なる実験の末に抽出されたはずの数式を、そうと意識しないで操作するように、彼らにとっては、「想像力、形式、内容というような文学的カテゴリーが論理的な記号としてのみ喚起されて、実体として喚起されない」のです。
(略)
こうした純粋無国籍の「無日本人」は、それが欧米のものであれ、日本のものであれ、現実社会というものを完全にシャットアウトした、ある意味、ヴァーチャルな思考方法を採用していますから、現実社会がどうあろうとも、そんなものには初めから無関心であり、それに情動を動かされたり、感情を刺激されたりすることも一切起こらず、いたって平然としていられるのです。
(略)
[第一のタイプが]半分残った「日本人」を無残にも丸だしにして、天皇制や父権的封建割に全面屈服して転向してしまったのとは対照的に、現実社会というものを捨象した純粋無国籍の「無日本人」たる小林多喜二宮本顕治宮本百合子、蔵原惟人 などは、現実がどう変化しようと関係がありませんから、「自分は、原則を固執すればよいのであって、天動説のように転向するのは、現実社会の方」であり、転向しようにも、転向のしようがないのです。(略)
 こうして、非転向もまた、いや非転向のほうこそがより本質的な転向(転回)であると喝破した吉本隆明
(略)
[第一、ニタイプとはちがう]「社会の構造の基底に触れながら、思想をつくりあげてゆく」ような第三の道は可能かと問う

高村光太郎


(せっかく世界水準の芸術つかんだのに、親父に跡継いで彫刻職人の親方になれなんて言われてデカダンス

高村光太郎は、パリ留学で、とりわけロダンの芸術に触れることによって「世界性(世界意識)」に目覚めたのですが、ある晩、「身体を大切に、規律を守りて勉強せられよ」と書かれている父・光雲の手紙を読んだとたん、急に悪寒を覚えて、フランス人女性とのデートの約束を取り消し、そこから深い憂鬱の底無しの井戸に投げ込まれてしまいます。以来、気軽につきあっていた白人女性の心がまるでわからないという激しい絶望感に捉えられ(略)相抱き相擁しながらも僕は石を抱き死骸を擁してゐると思はずにはゐられない」となったのです。
 そして、この二つの意識の間で引き裂かれたまま、父・光雲のいる日本の家、つまり濃密な「封建的優情」に満ちた下町の中産下層階級庶民の家に帰り、自分のこころの居場所をどこにも設定することのできないまま(吉本の用語なら「環境社会」を脱落させたまま)、強い健康な性欲から来るデカダンスに浸っていたのです。
(略)
[下町の少女にクラッときてw]
少女等を「悪しきもの」「悲しきもの」と罵倒しながら、惑溺してしまったのですが、しかし、まさに、その瞬間、ある意味、下町的な存在である少女等に対する「庶民社会の情念」が、「猫の背よりもうつくしき黒髪をもつ」というかたちで意識化され、「むざんなる力もてゐたりけり」という「批判的リアリティ」で捉えられ(略)
世界性(世界意識)に接続することができたのです。

格差社会の負け組みは利潤追求に血眼のデカダン人間を憎悪し一掃を望み、禁欲と誠実の権化・西郷隆盛のようなヒーロー再現を望む

昭和十二年の時点で、デカダンスを露呈するようになった社会に対してピューリファイの願望を抱えながら、その一方で、右翼ファシストの主張する「日本的なるもの」への傾斜を深めていた下層中産のインテリ(その象徴が吉本少年)と、高村光太郎はいかなる点が違っていたのでしょうか?
(略)
貧富の差からくるルサンチマンがないのに、なにゆえに光太郎はピューリファイの願望を抱いたのでしょうか?
 それは、当然ながら、例の自然法的な生活理念から来ています。すなわち、世界性と孤絶性の間で引き裂かれ、それらを調和させるべき環境を見いだし得ないと感じた光太郎は、長沼智恵子との出会いによって、可能となった(かのように思われた)性のユートピアを介して、ヴェルハーレン的自然法思想へと向かいますが、この自然法的な理念こそ、彼をして、すべての資本主義的な貪欲からの解放を祈願させたものなのです。
(略)
 智恵子は、日本人の皮を被った、日本語を話すフランス人でなければならないということです。(略)引き裂かれた光太郎の自我を、「外見=日本人=孤絶性、中身=フランス人=世界性」というハイブリッド性によってソフト・ランディングさせうる「唯一無二の解決策」ではなかったのかということです。より正確にいえば、光太郎が幻想の中で、そう思い込んだということです。

あとがき

もうメンドーになったので、
あとがきから少し引用して終了。

[鹿島の世代の吉本への評価は]
 中には、吉本隆明をいくら読んでもまったくピンと来ないというタイプの人もかなりのパーセンテージで存在していました。
 たとえば、一族郎党がみな大学出で、吉本のいうところの「世界共通性」の論理でものを考えるようなタイプの人。
(略)
 また、新左翼でも党派の論理で考えるタイプの人にも吉本隆明は無縁でした。シンパの段階でなら、共感を持って吉本を読んでいた人でも、党派に入ったら、それがどの党派であろうとも(吉本隆明に一番近いと言われた社学同旗派ですら)吉本の主張からはどんどん離れていきました。ようするに、政治的な人間は吉本とはソリがあわなかったのだと思います。

「自分の得にならないことはしたくないって?当たり前だよ、その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムファシズムが生まれるのさ」
思いきり乱暴に言ってしまえば、吉本はこう断言したのです。(略)
[それはあまりにも暴論だという人はこれを読んでと鹿島が引用したものから以下一部引用]


その虚像は民衆の解放のために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方が根柢的に駄目なんだ。(略)この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときにどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。(略)
幸福そうな市民たちが大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄味のある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。
[以上吉本文簡略引用]


 ここには、戦前のユース・バルジの「好戦的な」世代として、「玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、二十四時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者」たる農本ファシストの「虚像」に魅せられ、「倫理的な痩せ細り競争」を試みて一億玉砕の幻影に酔いしれたあげく、最後は、八月十五日の敗戦で自我の爆砕に立ち会った吉本自身の苦い経験が裏打ちされています。

私塾へ通うために近所のがき連中の輪からひっそり抜けていった日の切ない思いを描いた吉本の文章を引用したあとに

 おそらく、吉本はこの階級離脱の瞬間の「原体験の原感情」をもとにして、「大衆の原像」を練り上げていったのだと想像できます。それは、魂が最終的に戻ってゆくユートピアであると同時に、その特有な「封建的優性」によって、せっかく獲得したと思い込んだ西欧的な思想・倫理を一瞬にして骨抜きにしてしまう腐食性の悪夢でもあります。しかし、この「大衆の原像」をいたずらに抑圧したり、あるいはないものと決め込んだりしては、芸術も文学も社会運動も始まりはしないのです。