グーグル ネット覇者の真実

バックラブと粘着度

[エキサイト新CEO]ジョージ・ベルは明らかに気分を害していた。バックラブ(Googleの原型)は完璧すぎると考えたのだ。ユーザーのニーズを瞬時に満たす検索エンジンを採用したら、彼らの滞在時間は非常に短いものになってしまう、と彼は主張した。エキサイトの広告収入がユーザーの滞在時間に依存している以上――当時のウェブサイトが最も重視したのは、ユーザーをサイト上に引き留める「スティッキネス(粘着度)」と呼ばれる特性だった――バックラブの技術を採用すれば逆効果が生じることになりかねないというのだ。
 「エキサイトの検索エンジンの品質は、他の検索エンジンの80%に抑えるべきだと彼は僕らに告げた」とスコット・ハッサンは言う。「何てこった。こいつら、肝心なことを何もわかっていないんだなって思ったよ」
 それは1997年の前半のことで、ハッサンは即座にスタンフォードを退学して起業すべきだと主張した。(略)だが、彼らは同意しなかった。ラリーとサーゲイは2人とも、スタンフォードに在籍したままでもこの検索エンジンを開発できるはずだと頑固に主張し続けた」
 「当時の僕らには、起業家的な物の見方が備わっていなかったんだ」と、ブリンは後に語っている。
 ハッサンはプロジェクトを脱退すると、アレクサというできたばかりの会社に就職し、同時に自分でイーグループスという新興企業を立ち上げた。

「ザ・ホワットボックス」

「ザ・ホワットボックス」に決定しかけるも、「ウェットボックス(興奮した女性器を意味するスラング)」に発音が似てると却下。
始動

 スタンフォードでは、ブリンとペイジの友人や教授たちがグーグルを使って調べ物を行い、口コミで彼らの友人に伝わっていった。グーグルは1日に最大1万もの検索クエリを処理し(略)回線容量とハードに関しては、グーグルの「食欲」はとどまるところを知らなかった。「とにかく頭を下げて、借りられるものは借りるしかなかった」とペイジは言う。「幸い周囲にコンピュータはいくらでも転がっていたので、その一部を何とか手に入れた」
(略)様々なメーカーのコンピュータが寄せ集められて、レゴブロックでつくった手製のサーバーラックに収納されていた。ラリーとサーゲイは、キャンパス内の誰にコンピュータが搬送されてきたかを確認するために、大学の搬入口で待ち伏せをするようになった。インテルサン・マイクロシステムズといった企業からは、未来の社員候補のために大量のマシンが大学に寄贈されていたからだ。2人は贈られた相手が誰か突き止めると、「おすそ分け」を要求した。
[それでも足りず定価1/10の中古ディスク入手、性能に問題があったが、ディスクのOSを交換し使用]
約9ギガの容量のドライブを120台入手し、合わせて1テラバイトほど確保した」

ファイルシステムの独自開発

[2000年前半]グーグルは病魔に冒されていた。(略)
 問題は、クローラとインデックスのプロセスに固有の欠陥だった。ひとつのプロセスが完了する前に、クローラ専用マシンのどれか1台が故障すると、インデックスを最初からつくり直す必要があったのだ。RPGゲームで何百時間もかけて成長させたキャラクターが、怪物か強力な武器をもった敵に殺された瞬間、すべての労力が水の泡になるようなものだ。(略)
[殺到するアクセスに安物マシンを調達して対処するも故障する確率は増す一方]
部品はなるべく安くすませることを方針としていたから、故障を前提としたシステム設計をせざるをえないという事情もあった。
 「不具合に自動的に対処できるようにしておく必要があったから、ファイルシステムが複数のコピーを作成し、ひとつが駄目になったらまた新しいコピーをつくるような設計にした」とゲマワットは説明している。
 この少し後には「インメモリ型」のデータ管理方式も開発された。インデックスの内容をアクセス速度が遅く、信頼性が劣るハードディスクではなく、できるだけコンピュータのメインメモリに保存する方法だった。これによって処理速度がかなり高速化し、柔軟性が高まり、コスト節約にもつながった。

ヤフーとの提携で得たもの

[アクセス数が二ヵ月で50%も急増するも]ヤフー経営陣から受け取った唯一のコメントは、検索の利用件数ばかりが増えてグーグルへの使用料が高くついて困るという苦情だけだった。
 しかし、グーグルにとって検索のライセンス契約で得られる最大の利益は使用料ではなかった。[膨大なユーザーとデータを得たことだった](略)
 グーグルのログに秘められた価値に最初に気づいたのはアミット・パテルだ。(略)彼が最初に担当したプロジェクトのひとつは(略)「何人のユーザーがグーグルを使っていて、それはどんな人々で、どのように使っているかを調査せよ」というものだ。(略)
たとえば、週末には学校の宿題のために検索を利用するユーザーが急増する。「みんな日曜日の夜まで宿題に手をつけず、ぎりぎりになってケーブルで調べ物を始めるんだ」
 さらにグーグルで最も検索されている内容をリアルタイムで追跡すれば、世界がこの瞬間に何に興味をもっているのかを垣間見ることができる

翻訳アルゴリズム

1980年代後半にIBMのコンピュータ科学者たちが統計的機械翻訳という新たな手法を開発したため、フランツ・オックはこの手法を取り入れることにした。
 「基本的な考え方はデータから学ぶということだ」と彼は説明する。「まずコンピュータに単一言語のテキストを大量に与え、コンピュータ自身にその構造を分析させる」。つまり必要なのはコンピュータ自身に「考えさせる」ことだった。
 まず、オックのチームが調査対象とした言葉の「言語モデル」を作成する。次に、すでに複数の言語に翻訳された同一テキストを使って、ある言語を別の言語に翻訳するにはどのような暗黙的アルゴリズムが働いているのかをコンピューターに分析させる。「単語と文章をどうマッチさせるかを学習し、テキストのニュアンスをすくい上げて翻訳を行うことに特化したアルゴリズムは必ず見つかる。重要なのは、データの量が多いほどシステムの品質が向上することだ」

ツールバー

[ジョン・ドーアは]マイクロソフトが自社検索エンジンをIEに組み込めばグーグルの立場はきわめて脆弱なものになるので、今のうちになるべく多くのユーザーにツールバーをインストールするように働きかけるべきだと主張した(略)
 しかし、陳天浩という新しいAPMがチームに配属されるまで、ツールバーはまったくユーザーに浸透する気配を見せていなかった。(略)
 陳はツールバーがユーザーに無視されているのは、それが何の価値も提供していないためだということに気づいた。そこで彼は、わずらわしいポップアップのブロック機能をツールバーに追加する案を思いついた(略)
 彼がミーティングでこのアイデアを発表したとき、ブリンとペイジはブラインドのひもにペットボトルを結びつけて回転させて遊んでいたが、それを却下した。「そんなばかげたアイデアを聞いたのは初めてだ!この会社は君みたいなのをどこから拾ってきたんだ?」(略)
[陳はブロック機能を勝手に追加、こっそりペイジのPCにインストール、しばらくしてペイジがブラウザが速くなったと感想、陳が実はと告白]
 「あれは却下したはずだろう?」とペイジは言った。
 「20%ルールのプロジェクトと考えてください」と陳は言い返した。とにかく、これでペイジは疑念を捨て、機能追加を承認した(その結果、ツールバーのダウンロード数は数百万回に達した)。

ユーチューブを創設した3人は

2005年4月、自分たちのつくった動画をサイトにアップロードし始めた。カリムが雪に覆われた丘を転がり落ちてくる様子とか、チェンが飼っていたスティンキーという名の猫のおどけたしぐさといった他愛ない内容のものだ。彼らはサイトに動画が洪水のように殺到することを期待したが、そう簡単にはいかなかった。
 5月になると、彼らは焦燥のあまり、クレイグスリストに広告を載せ、自分の魅力を満載した動画をユーチューブにアップロードしてくれた「美女」には、動画10本ごとに100ドル支払うと宣言した。その結果、ユーザーの利用頻度が一気に高まり、雪崩現象が起こり始めていた。
 その夏、マット・ハーディングというの名の男性が、世界各地の観光スポットで自分が奇妙なダンスをしている様子を映した動画を投稿するようになると、一躍ネット上の有名人となった。

ユーチューブ買収

の興奮冷めやらぬグーグル社内では、それが意味するある気掛かりな事実――今回の買収が必要になったのは、グーグル自身のプロジェクトが失敗したからにほかならない(略)
グーグルビデオ・チームは上層部から承認とアドバイスを得るために莫大な時間を費やしていた。弁護士チームの監視によっても大きな制約を受けていた(略)
ユーチューブでは、上司のために大量のスライド資料を何度も書き直す必要はなかった。自分が正しいと感じたことをやるだけでよかった。(略)
 しかしグーグルもまた、ただの企業ではなかった。ユーチューブを買収した後、非常に賢明な選択をした。ユーチューブを統合しないという意識的な決断を行ったのだ。グーグルの最初のウェブ動画プロジェクトが失敗したのは上層部が関与しすぎたためだと認めたかのような決定だった。
 「ユーチューブは小規模で先進的だったが、私たちはますます巨大化していた」とドラモンドは言う。「うまくいっているものを台無しにしたくなかった。」当時ラジオ広告会社のディーマーク・ブロードキャスティングを9億ドルで買収して失敗したばかりで、慎重になっていたことも関係していたのだろう。

ソ連脱出

ブリンの一家は旧ソ連の出身で、ソ連ではユダヤ系であることを理由に差別を受けていた。サーゲイの父マイケルは宇宙物理学者を夢見ていたが、政府にその道を閉ざされて数学の世界に進んだ。(略)
[エコノミストとして国家計画委員会に薄給で10年勤めたが、ソ連の生活水準がアメリカよりはるかに高いというプロパガンダ量産を強いられた]
 1977年、マイケルはポーランドで開かれた国際会議に出席したとき、初めて西側諸国の人々とじかに接し、ソ連の外の暮らしを垣間見た。ソ連を脱出すれば、息子にもっと明るい未来が開けるのではないかと思った。「これ以上、この国にとどまるわけにいかない」と、帰国するなりマイケルは言った。こうしてブリンー家はおっかなびっくり、移住の申請をした。国外移住を願い出ること自体が危険な行動だった。ソ連を出国できたのは、1979年。しかし、すぐに足止めを食い、一家は精神的に張りつめた日々を送った。パリで数ヶ月待たされた後、ようやくビザが発給されてアメリカに入国できた。マイケルは新天地でメリーランド大学の教員の仕事を見つけた。
 この経験がブリンの世界観を形づくった。「ソ連から出たいと申請しただけで、裏切り者のレッテルを貼られた」と、ブログに書いている。「父は職を失い、警官が頻繁に訪ねてきた」。ブリンは民主主義と自由を無条件に重んじ、自由を束縛されている人たちの苦しみに共感を寄せるようになった。

「ジュー・ウォッチ」騒動

[「Jew」で検索すると反ユダヤ主義サイト「ジュー・ウォッチ」がトップに。この差別的なウェブサイト]「ジュー・ウォッチ」を検索結果から除外すべきだという批判が高まった。
 ブリンの苦悩は、傍目にもはっきり見て取れた。検索結果を恣意的に選別すべきでないと主張したのは理性に基づく反応だったが、声の震えに内心の感情が表れていた。(略)「自分の思想信条を押しつけるべきでないと思う。テクノロジーの世界では、そういうやり方はよくない」
 ブリンが最も心配したのは、グーグルが「ジュー・ウォッチ」にお墨つきを与えていると誤解されることだったようだ。「私たちが意識的な決定に基づいて、このような検索結果を表示していると思われたくない」と、当時述べている。最終的に、「Jew」という単語の検索結果リストの冒頭に、スポンサードリンクの形で、自社のメッセージにユーザーを誘導するリンクを表示した。リンク先には「不快な検索結果について」と題した文章を掲載し、「私たちもこの検索結果を不快に感じています」と述べたうえで、グーグルのアルゴリズムがときに不適切な検索結果を生み出す理由を詳しく説明したページヘのリンクをさらに張った。