放送禁止歌手 山平和彦の生涯

山平和彦、「放送禁止歌」、モーリスのCM、弟分のマイペースは「東京」がヒット。


山平和彦/貝

シンコー・山本隆士

 「山平にはカリスマ性があった。端整な顔立ちと、秋田訛りが混ざる喋りのギャップもよかったのかもしれないけど、独特な存在だったんですよ。『ヤング・ギター』の編集部には拓郎なんかもよく来てたし、その後はユーミンも来ました。みんな売れる前は、ぼくのところで遊んで、情報を収集して帰ってたんですよ。だから、スターになるミュージシャンの匂いやオーラは知ってた。ぼくは“山平はぜったい行ける”と思ってました。
(略)
そのうちにプライヴェートでも秋田に行くようになって、山平やマイペースとほんとに仲良くなるんですよ(略)
 「ぼくが武石輝代をシンコーミュージックにスカウトするみたいな形になったでしょ。そのあとすぐ『放送禁止歌』が出たんで、山平にも事務所が必要になった。あきたおんがくくらぶじゃプロとしては通用しませんから。それで大久保銀次とMOVEをつくるんだけど(略)レコーディングの段取りを決めたり、ミュージシャンを集めたりっていうのは彼らじゃできないから、そういうのはぼくがやってたんですよ。もちろんシンコーには内緒でね。『放送禁止歌』に入れる曲や、その曲順も、ぼくが決めたんじゃなかったかな。『風景』のときもいろいろ口を出したはずですよ。よくは憶えてないけど。モーリスのCM? あれもぼくが持っていった話です。モーリスは『ヤング・ギター』に広告出してましたから、社長とも広報担当ともツーカーだった。

著者・和久井光司重松清ジュンク堂トークセッション

マイペース「東京」

放送禁止歌 (知恵の森文庫)

放送禁止歌 (知恵の森文庫)

森達也放送禁止歌』での山平インタビュー
(著者自身もこのドキュメンタリーで久しぶりに山平を観て感動)

 「〈放送禁止歌〉が文字通り放送禁止になった理由はそもそも何ですか」
 僕の質問に、山平は首を傾げながらこう答えた。
 「確かね、タイトルがふざけているとか、そんな理由だったと思いますよ」
 「タイトルですか?」
 「そう。民放連の、確かそういう禁止歌を決める部署があるんでしょ。そこの人たちが自分たちを砥めていると怒ったという説明でしたね。歌詞が問題になったとは聞いていません」
 「ならばタイトルを変えようとは思わなかったのですか」
 「タイトルも歌の一部だしねえ。まあ昔のことですよ。日本という国の民度の低さに失望しただけだよ」
 歌ってもらう前のインタビューでは、どちらかといえばこのような強気なニュアンスの発言が山平には多かった。しかし歌い終わり、(緊張からともかくも解放されたためなのか、それとも持ち歌を人前で歌うという久しぶりの行為に何かが触発されたのか)感極まったようにしばらく沈黙した山平和彦は、ギターを抱えたまま、囁くように、自分に言い聞かせるかのように、ぼそぼそとこうつぶやいた。
 「……歌がもし生きているとしたら、……僕は誕生間もない子供を殺されたようなものかもしれないですね。……あんな理不尽な規制にあうようなことがなかったなら、もしかしたらまだ今も、僕は歌を続けていたのかもしれないな」
 森さんの番組への出演がきっかけとなって、山平和彦は再び唄い始めた。

小室等との対談

山平 オレの身のまわりにある歌の殆どはさ、吐き捨てっていうかな、かなり叫ぶっていう感じの歌があってもね、そいつは歌ったあとは何も持ってないんだよ。こっちにぶっつけられてそれで終り、そういう歌が多くてね。(略)ボブ・ディランにしてもさ、最近よく聴くんだけど、叫んでても捨ててないんだよ、自分のドロドロした部分から絶対離さない感じな。だから、こっちは何だろうってんでカブリつきになっちゃうんだけど、それでも逃げていくわけね。昔の民謡ってのは皆そうなんだよね。みんなでワイワイ楽しんでるみたいだけどさ、歌ってる本人はもう歯を喰いしばってさ、涙ためながら一生懸命笑顔作りながらさ、歌ってんだよな。長持唄っていうのは日本全国にあるじゃない、嫁を送る歌なんだけど、秋田のはすごいよ。出刃包丁持っていく……。(略)
相手の婿が憎いんだよ。オレのおふくろみたいな奴の親父だから、ちっともメデタクないんだよ。娘が可愛いんだよ。どうしてこんな生活しなけりゃなんないのかとかさ、そのために可愛い娘をくれてやんなきゃいけないんだってな。吐き捨てられるわけがないじゃない。

上記のような発言を読むと何かあるかんじなのだけど、中三の春休みに山平を訪ねた塔東少年(未来の「とうじ魔とうじ」)の目に映る姿はよくいるいやなカンジの地方タレントのようでもあるし。

 山平の名刺というのがまた「神さま」という三文字が印刷されているだけのもので、ファンの間では有名な代物だった。ぼくはその現物を頂いたのだ(当時、全盛期の山平は神様を自称し、ファンもまたそう呼んでいたのだ)。
(略)
 山平のポケットからはチラチラと札束が覗け、僕はお金の扱いの大胆さに少しハラハラした。山平はマンションの前でタクシーを止め、僕らは乗り込んだ。タクシーをつかまえるわずかな時間にも、女学生たちが「山平和彦だ!」と指を差した。
(略)
[フィアンセとあべ静江と三人で海外旅行に行くという話をする山平]
 この会話は重要だ。あべ静江は当時、東海地方が生んだ最大のスターだったからである。ヨーロッパ旅行のチケットは東海ラジオ絡みでプレゼントされたものだろうが、全国区の人気者だったあべ静江と並んで優遇されるほど、「山平は東海地方ではビッグ・スターだった」ということなのだ。
(略)
 「このデパートは、俺ん家みたいなもんなんだ」
 山平はそう言うと、女子店員に片っ端から声をかけた。プレイガイドにも寄り、自分のコンサートのチケットの売れ行きを確かめたりもした。そして一人の女子店員に「上の食堂で待ってるから、すぐ来いよ」と言った。「必ず来いよ、って言うと、みんな来るんだよ」と山平は僕に言った。

山平が現代詩に曲をつけて歌うの“アートだな”って思ってた。小室等さん?んー、小室さんが谷川俊太郎さんの詩に曲をつけたりするのと、山平のは違うものだと思うんです。小室さんは正統派だから。山平のはね、もっとニューウェイヴだったり、オルタナだったりって感覚があった。当時はそういう言葉がなかったからうまく言い表せませんでしたけどね。〈明日は水たまり〉 って曲があるでしょ。あれなんか短い歌の部分が終わると、インプロヴィゼーションに突入して、マイペースと20分ぐらい、延々とやってましたからね。フリー・ミュージックですよ。そんなフォーク歌手はほかにいなかった

歌をやめ、小さなイベント制作会社を経営していた父は事故死、母は癌死、残された二人の子供。
姉・宙音

若い頃はかわいいカップルだったんだろうなと思う。(略)バブルがはじけてからは夫婦としてうまく機能してなくて、家族みなちぐはぐ、その間にひとり死んで、めちゃめちゃ。私が想像するに、芸術家肌で常識破りな男に10代で惚れちゃったけど、不安定な生活には耐えられず(?)、普通の父像、良い子供像を計らずとも押しつけてしまった母と、しばらくは演じてみたものの、バブル崩壊という報われない現実の中で母を守りきれず、パンドラの箱をあけてしまった(創作活動を再開した)父、って感じなのかな。

弟・光秀

バブルのころは収入も多く、外車に乗ったり家族で海外旅行へ行ったりもした。晩年は仕事が少なく、数名いた社員もいなくなりました。父は寂しそうに見えた。仕事が減り始めたころからよく酒を飲むようになり(略)
 「そのころ母が癌で入院していました。母はもって一年か二年、と医者に告げられたショックと、毎日酒を飲んでベロベロになって帰宅するあまりにも頼りない父に閉口して、ぼくは少し鬱のようになっていたんです。(略)過労とストレスから家で倒れてしまいました。(略)
 倒れているぼくを発見したのは父でした。すぐ病院に連れていってくれたんですけど、たしかそのときに、“もう酒を飲むのは止めてくれ”って頼んだと思います。回復してから、ぼくは再度、今度は手紙で、そういう想いを父に伝えました。“もう酒に酔ってベロベロになっている姿は見たくないんです。とくにいまは母がこんなときだから辛いです”と。
 その後、二人で落ち着いて話をしました、父の気持ちもわかりました。仕事が減って住宅ローンや借金の返済が収入を上まわっている、こんなときに道代は死んでしまいそうだ、と言う父は、現実を直視できなかったのでしょう。辛そうでした。父は家や土地には執着していませんでしたが、母方から譲り受けた土地ですから、母は家に執着があるようでした。
(略)
[父は酒をやめ、御飯をつくったりもするようになる]
父が事故に遭ったのは、“母が亡くなってしまったら、こういう風に父と協力していくんだなぁ”と思っていた矢先のことです。

URCアンソロジーVol.1 URCの誕生

URCアンソロジーVol.1 URCの誕生

URC

 69年夏に中津川で開かれた「第一回全日本フォークジャンボリー」のあと、フォークはGSに代わる“音楽としてのトレンド”にもなった。高石事務所は「音楽舎」と名前を変えて、フォーク界最大のマネージメント・オフィスとなるのだが、そのころには岡林が失踪、高石もアメリカに雲隠れするという事件が起こり、制作現場は早川義夫や、のちに音楽評論家として名をあげる小倉エージが切り盛りしていくようになる。
 早川と小倉は、高石や泰にはなかったロック感覚をURCに持ち込もうと、70年に遠藤賢司はっぴいえんどを迎えた。

エレック・アンソロジー

エレック・アンソロジー

エレックは、

URCやベルウッドのような“志”の下に設立されたレーベルではなかった。
 エレック社という出版社を経営していた永野譲が、朝日ソノラマから請け負った編集仕事のひとつとしてつくったソノシートつきの本『浜口庫之助の作曲入門』が、売れに売れたことから、半ば偶然のように生まれたのが、エレックレコードだったからだ。
[『浜口〜』の読者から作曲に関する問い合わせ殺到、通信教育音楽講座開始、優秀作品のレコード化が強く望まれ、文化放送人気DJ土居まさるに唄わせることに]
圧倒的な認知度や、土居の番組でのオンエアを考えれば、レコードはそこそこ売れるだろう、と踏んだに違いない。(略)
[通信販売のみ、土居がオンエアすると問い合わせ殺到]
試しに〈カレンダー〉を通常のシングル盤としてプレスし、一般流通に乗せてみると、これが八万枚を売るヒットになるのだ。
 浅沼は土居に二枚目のレコードを吹き込ませようとするが、ことが大きくなってしまったために文化放送側から待ったがかかり、エレックはフォークともアイドルとも呼べない女性シンガー朱由美子や、鹿児島のご当地ソングのシングルなどを出して、なんとか体裁を保った。
(略)
[本格的に始動せんと]
広島フォーク村の中でも力のある四人を東京に呼んでレコーディングした浅沼は、このアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を70年4月25日に発売した。関西フォークの盛り上がりが学生運動とリンクしていることに目をつけた浅沼は、ユーゲントレコードという組織が自主制作したことにして、「資金稼ぎに」と上智大学全共闘に一万枚をあずける(在庫はみごとになくなったが、売上の回収はできなかったという)。

シンコーミュージック

[山本隆士・64年入社]
 「ぼくが入ったころのシンコーはのんびりした会社だった。草野さんは漣健児のペン・ネームでポップスの訳詞をやってましたけど、楽譜の出版社ですから、音楽づくりの現場とはちょっと距離があったし、『ミュージック・ライフ』も国内のカントリーとかロカビリーを追いかけてるファンジンみたいなものでした。楽譜の宣伝のために出してるような、少部数の雑誌だったからね。小川町? いやいや、当時は日本橋の呉服屋さんのビルに入ってたんですよ。草野さんがどういう取り決めをしてたんだか知らないけど、シンコーの社員はその呉服メーカーを通じて社会保険に入ってた。ずいぶんあとまで、それはそうだったんじゃないかな。のちに後輩が不思議がってましたから。ところが、ぼくが社員になってすぐ、それが一変する。ビートルズが出てきたからです。3000部とかだった『ミュージック・ライフ』が10倍、20倍に売上を伸ばしていったんで、草野さんもホクホクですよ。それで、楽譜出版の方でも海外の曲の出版権を積極的に取りに行ったり、国内の新しい音楽の動きに敏感に反応していくようになる。ぼくなんかは泳がされてたんです。(略)だから、アメリカ行きも許されたんですよ」(略)“新しいロック”に感化されて帰ってきた山本は、69年に『ヤング・ギター』を創刊する。(略)[「楽譜がついた雑誌」は見る見る部数を伸ばし『ミュージック・ライフ』に迫る雑誌に]
 「当時は集英社が『ヤングセンス』、ヤマハが『ライトミュージック』を出してましたが、コード・ネームだけじゃなくストロークのアップ/ダウンまで載せた雑誌はウチが最初だった。それが受けたんですよ」

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