マルティン・ルター、自由

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

十字架の神学

人間の救いは、イエス・キリストの受難と十字架の姿を、神のあるがままの姿として受け入れることで成就する。ルターは「十字架のみが、われわれの神学である」と説いた。
 ギリシア思想の影響を受けて、中世のキリスト教神学は、「栄光の神」を中心に構築された、人間の思考にもとづく思弁神学の様相を呈していた。ルターによる十字架の神学は、このような人間を中心に築かれた神学に対するものであった。(略)
 キリストの十字架は、中世においては、目を背けたくなる忌むべき象徴であった。無残に刑死したイエスの姿は、みじめで弱々しく、みすぼらしい、ただの人間の男を想起させるだけで、そこには奇跡も栄光も何もないと思われた。ルターは、そのイメージを180度逆転させる。神々しく、栄光に満ちあふれたイエス・キリストは、人間が罪の中でイメージしたものにすぎない。神が真に人間に示して見せる恵みとは、イエス・キリストの受難と十字架である。この無残なキリストの姿こそが、神が人間に与える「義(正しさ)」であり、人間はその「義」を受け入れることでのみ救われる。ルターはそう捉えたのである。

 一、律法とそれにもとづく人間の行いによっては、人間は救われないこと。
 二、罪に堕ちた後の人間の自由意志とは名ばかりであって、これによるかぎり、人間は罪を犯すほかはないこと。
 三、神の恵みを得るには、人間は自己自身に徹底的に絶望するしかないこと。
 四、神の救いの啓示は、キリストの十字架によってのみ与えられること。


 もう一方の哲学的提題では、キリストとはまったく関係のないアリストテレスを根拠として営まれる当時の神学を批判し、神学をギリシア哲学から解放すべきであるとの立場を明らかにした。

贖宥状

 七世紀頃のアイルランドで始まったとされる悔悛の秘跡は、当初は修道士たちが担う、民衆の魂を配慮する真剣な行動であった。断食をせよ、施しをせよ、徹夜の祈りをせよなどという、一人ひとりに対する罰として科せられる償いを、修道士たちは祈りつつ、人びとの代理となって果たしたのだった。そうした修道士たちの熱心な働きによって、この時期のアイルランドではキリスト教が爆発的に民衆に受け入れられた。
 ところが、この償いの行いが民衆の間にも広まり一般化され、ひとつの制度になると、徐々に空洞化が進んでいく。厳しい償いの行いを果たさなくても、罪の赦しが受けられるように変わっていったのである。まずは、償いが、代理を立てて果たすこともできるようになった。自分に科せられた罰を自分で果たすのではなく、誰か別の代理を立てて果たしてもらうのである。これが、贖宥の始まりである。
 さらには、人間は日頃の良い行いを業績として積み立てておけるとみなされるようになり、その積立てを償いに当てることもできる、とされた。自分のために積み立てられるなら、他人のためにも積み立てられる、と考えられても不思議ではない。生前に良い行いが多く、業績を積み残したまま死んだ人の業績を、教会は「教会の宝」として積み貯めて、時に応じてこれを用いることができると考えられるようになった。しかも、その宝は、ローマ教皇の裁量で現世の人びとに分け与えられる、ということになっていった。教皇から宝を分け与えられた人は、罪の償いを免じられる。こうして教皇が教会の宝を分け与える証明書が「贖宥状」である。

 九五箇条の提題で

ルターが聖職者や神学者たちに問いかけ、訴えようとしていたことは、単なる教会批判ではなく、民衆の魂の救いのためには何が必要かということであった。ルターの関心の中心は民衆の魂の救いにあり、神学研究はあくまでそのための手段であった。(略)
 当初は何ら反応を得られなかった九五箇条の提題だが、各地で印刷物の形で出回り、読み聞かせが行われるようになると、農民や都市部の商工業者など、多くの民衆がこれに賛同しはじめた。また、勃興途上にあったドイツ・ナショナリズムの立場のドイツ騎士たちも強い反応を示した。政治的統一に出遅れたドイツは、各地の教会を通じて教皇庁に富を吸い上げられていた。贖宥状のからくりを見抜いていた人びとは、教皇庁に対して不信と不満を募らせていたのである。その上にさらに、教皇の権力に対抗する諸侯の政治的な動きも加わった。

ルダーからルターへ

 「エレウテリウス(Eleutherius)」というギリシア風の名前を使いはじめたのは、直接的には、本名の「ルダー(Luder)」との音韻上の類似に着目してのことであろう。(略)1517年11月の手紙では、さらに意味を加えた、「兄弟マルティヌス・エレウテリウス、しかしながら、まったくの僕で捕われ人」という署名が現れる。これはひと言でいえば、「自由であって僕」という逆説的な意味をこめた名前である。(略)
 一方、「ルター」という名前は、「エレウテリウス」と名乗りはじめたのとほぼ同じ時期、九五箇条の提題を添えて送った、マインツ大司教アルブレヒト宛の手紙に初めて登場する。当初は「エレウテリウス」と併用されていたが、「エレウテリウス」の方は次第に家族や親しい友人に対してだけ使われるようになり、1519年1月の手紙を最後に使われなくなる。(略)最終的には「ルター(Luther)」に統一されていった。(略)
 「ルター」という名前は、彼の中で「自由であって僕」の逆説的意味を担うドイツ語名として自覚されていたはずである。以後、彼は生涯の最後まで「ルター」で通す。「ルター」という名前は、神のことばの下に生きる、自身の覚悟を表す名前なのである。

騎士ヨルク

[ウォルムス喚問からの帰途、ルターは突然姿を消し、暗殺の噂が広がる]
画家デューラーは旅日記の中で、「これで自分たちの希望がなくなった」と嘆いている。
 しかし、ルターは生きていた。じつは襲撃とはカモフラージュで、選帝侯の宮廷顧問官たちが仕組んだ誘拐劇だったのである。ルターはワルトブルク城に匿われていた。(略)城内に大きな一室を与えられ、「騎士ヨルク」として身を隠すことに。(略)
[選帝侯フリードリヒの考えは]
追放された破門者を公然と擁護するのは、教皇や皇帝の手前はばかられる。といって、臣下の宮廷顧問官をはじめ、民衆の圧倒的支持を受けているルターを見殺しにするのは得策でない。それに、ルターを野放しにしておくと、何をしでかすかわからない。(略)
 誘拐劇からの10ヵ月間、そしてその後の生涯にわたってルターを支持しつづけたのが、ザクセンの宮廷顧問官であった。さきにも書いたように、ザクセン地方はヨーロッパ有数の銀、銅、錫の産地として経済力を強めていた。その管理権を握っていたのが、新興官僚ともいうべき宮廷顧問官である。彼らは各種の統計資料を駆使して、いまでいう生産調整や出荷調整も行って、領内の経済力の維持向上に努めた。彼ら新興官僚は、財政と経済の強化を背景に、官廷内で発言力を高めていた。

自由

 ラテン語の「リベルタス(Libertas)」という単語には、古代ギリシア以来の「人間の意志の自由」という意味が含まれている。法的指向が強いローマで成立した単語であるだけに、おもに個人の権利をさしている。他方、ドイツ語の「フライハイト(Freiheit)」という単語には、「共同体に所属する意識とそれへの愛と忠誠」という意味が含まれ、古代ゲルマンの部族意識が宿っている。ルターは、個人の権利をさすラテン語の「リベルタス」では、「自由」という概念の本質は表しきれないと考えた。そこで、ドイツ語の「フライハイト」にある「共同体への愛と忠誠」という意味を基礎にして、『キリスト者の自由について』を構想したと考えられる。
 ルターにとっての「共同体」とは、『ローマの教皇制について』で論じた真の教会、すなわち神のことばに生きる信仰者の共同体である。ルターはおそらく、ドイツ語に由来する「共同体への愛と忠誠」という意味をむしろ逆にラテン語の「リベルタス」へ盛り込もうと、教皇に献呈するラテン語版を書いたものと考えられる。つまり、「フライハイト」というドイツ語を使うことは、教皇制に対する挑戦でもあった。

中世の神学における自由の概念は、大きく分けて二つの側面をもつ。ひとつは、「人間の意志の自由」という側面。もうひとつは、「教会の自由」という側面である。これら二つの「自由」はそれぞれ、古代ギリシア、ローマにおける自由理解のキリスト教化であるといってよい。「意志の自由」は、理性のはたらきにおいて人間は自由であると考えた、古代ギリシアの自由理解をキリスト教化したものである。「教会の自由」は、教会の権利、権益に関わる、古代ローマ帝国以来の政治的な自由理解をキリスト教化したものにほかならない。
 これら二つの自由は、互いに別の脈絡をもつにもかかわらず、どちらも人間の「救い」に関係する点で一つに結び合わされていた。人間の意志の自由は、「救い」というものに対する前提条件となる。一方、教会の自由は、教会による「救い」の管理権を保障する。こうした「教い」に対する理解と認識が相まって、教会に管理された救いにおいて、人間は罰からも自由になれると考えられるようになっていたのが、ルターの生きた時代であった。ルターが九五箇条の提題で「愛のわざによって愛は成長し、人間はより良くなるが、贖宥によって人間はより良くならず、ただ罰から自由になるにすぎない」と指摘しているのは、この問題を突いているのである。

賛美歌

賛美歌を始めたのがルターであると知る人は、必ずしも多くないようである。(略)中世の伝統的な聖歌ではやはり、もっぱらラテン語が使われていた。(略)教会に集まる民衆は、何を歌っているのか理解できなくても、厳かな面持ちでただ静かに聴いていればよかった。(略)ルターはそれを改め、普段つかうドイツ語で歌うことを通して、民衆を礼拝に参加させようと試みた。
 1523年秋、ルターは自ら一つの賛美歌を作詞、作曲した。詩篇の第130編にもとづく、「深みから私はあなたを呼ぶ」という賛美歌である。
(略)
民衆が歌う賛美歌は、やがて「コラール」と呼ばれるように(略)
 ルターは生涯の間に50編ほどのコラールを作詞し、そのいくつかについては作曲もした。(略)
 16世紀の後半から17世紀にかけて、ドイツは優れたコラールの作詞家、作曲家を数多く輩出した。もし彼らのコラールがなければ、バッハのオルガン曲、カンタータ、受難曲、オラトリオなどの教会音楽は生まれなかったと言ってよい。そのバッハからほぼ100年後、忘れられていたマタイ受難曲を復活演奏したメンデルスゾーンは、その交響曲第五番で、ルター作のコラール「神はわがやぐら」のメロディーを取り入れた。そのほか、コラールにもとづくオルガン曲も数多く作曲している。ブラームスにもそうした作品が多い。