神と国家の政治哲学・その2

前日のつづき。

神と国家の政治哲学 政教分離をめぐる戦いの歴史 (叢書「世界認識の最前線」)

神と国家の政治哲学 政教分離をめぐる戦いの歴史 (叢書「世界認識の最前線」)

原罪

[ルソーの]『エミール』を読んだ人は誰でも、それが原罪という観念そのものに対する破壊的な攻撃であることがわかった。(略)
 カントもまた、原罪についての伝統的神学概念を、人間の自由を侮蔑するものとして拒絶した。(略)[他方で]魂の内にある、拭いがたい、何かしら暗く自分たちの手に負えないもの、神学者が罪あるいは「根元悪」と呼ぶ何かについて、キリスト教的な感覚を失うことは決してなかった。人間の心情に悪があるだけでなく、人間は悪を知っている。そしてそれもまた、彼ら人間が神を必要としている理由だという。

新しい種類の神学

ホッブズは、無知と恐怖を養い育てる社会病理が消失するにつれて、神の絆についての信仰を待つ必要性も消失するはずだと考え、その最も過激な主張を行なった。ルソーとカントは(略)神との絆について弁護可能な見解を持つことは必須であるとする根拠を提供した。(略)
彼ら二人は、神学の焦点を神から神を信じる人間の信仰に、神の啓示から人間の理性と宗教の両方の源泉である人間の心〔理性〕に移す仕事をしたのである。この基礎の上で新しい種類の神学がイメージされうるし、人文学の学問的営みが道徳にみあう協力者とみなされうる。そうであれば、どんな特定の宗派にも結びつかない、他のすべてのものと共存できる新しい種類の宗教がイメージできる。そしてそれは、宗教のすべてをより合理的で寛容な方向へ向かわせる目に見えない力として働きうるという。

和解の保証

 カントが道徳的人間に与えることを拒否したものは、和解の保証である。カントの著作には、非常に多くの緊張が縦横に張りめぐらされている――性癖と義務、自然と自由、見える教会と見えざる教会、民族国家と世界秩序――だがどこにも、われわれ自身の内にも他者に対しても、われわれは究極の和解の保証を見いだすことがない。カントは絶望の脅威を認識していた。それが、この世界にあって集団的に悪と戦う見えざる教会として、また正義を求める普遍的な道徳‐政治共同体の市民として、自分たち自身を考えるようにカントが勧めた理由である。神と不死の観念と同じように、これはわれわれの行為を方向づけるひとつの統制観念である。それは、冷ややかな慰めにしかならず、祝福された保証でもない。もしわれわれが自分たちの人生の合理的―道徳的目的を追求しなければならないとすれば、和解が考えられなければならないとカントは言う。だが和解が既に達成されているとわれわれが考えることは、決して許されていない。それは道徳的な偶像崇拝になってしまう。

ヘーゲル、疎外

ヘーゲルの哲学は、和解は地上で可能であると宣言することにより、最も高度にキリスト教的な願望を根元的なものとなすことで――単に可能であるとするだけでなく、全体から見て既に近代のブルジョア国家において実現しているとして、この観念を現在に移し替えたのである。

ヘーゲルの眼前の標的はカントであった。カントの狙いは治療力のあることであった。即ち、われわれの形而上的な欲求を満たし、神の絆に関する整序された「統制的観念」で実質的な限界設定の必要を納得させる一方で、彼は理性の限界の中で生きることができることを示そうと願っていたのである。ヘーゲルと彼の世代全体は、現実との完全な和解という観念をカントがはねつけたということを根拠に、この治療法に反乱を起こした。
(略)
ヘーゲルの斬新な論議は、カント哲学に言外に含まれていた現実からの疎外は、まさに人間の意識のひとつの段階を表現しているとするもので、精神は疎外を克服するように運命づけられているというものであった。疎外されているということは、精神の外側に、何かある「絶対的な」現実がある、その向こう側に超自然的な力があると想定することであった。ヘーゲルは、この想定に疑問を投げかけ、「絶対的な」ものは人間の精神に他ならないと示唆した
(略)
ホッブズ主義者のイメージは、心と世界の間に本来的で永続的緊張があることを想定している。この両者のイメージに、ある要素を結び合わせているのがヘーゲルであるが、それをダイナミックな力と見なし、疎外されている世界に立ち向かう力、彼が「否定性」と呼ぶところの精神的な力であるとヘーゲルはみなしている。そして、立ち向かうことによりこの世界を純粋に知るようになるとしている。この厳しい闘争を経て獲得する理解が、われわれを究極的に世界と和解させるという。

ヘーゲル以前に、宗教とその発展に関する近代の理論は無数にあったが、ヘーゲルは、宗教を生みだしたその宗教的世界を理解することによってのみ、哲学は宗教を理解できるという基盤にのっとり、哲学の一部としての宗教に合理的な省察を加えた最初の人である。ホッブズから一世紀半後に、宗教――それと共にキリスト教――が、哲学的省察の中心主題という地位を再び獲得したのである。
(略)
[初期の思想家]にとって、宗教はくつわを付けて制御されるべきもので、教化されることのないままでは危険なものであった。(略)
ひとつの方便であり(略)人間や社会について何か深い真理を保ち伝えるものとみなされたことは一度もない。だがヘーゲルにとって、宗教はまさにそのようなものなのである。

人間の心[精神]の島に住めるようにしたカントの努力が、神の顔を見る希望を持たないまま、再び形而上学の海に船出しようとするロマン主義の衝動をそそった。ヘーゲルブルジョア的和解は、そうした衝動に火をつけたにすぎない。