神と国家の政治哲学

神と国家の政治哲学 政教分離をめぐる戦いの歴史 (叢書「世界認識の最前線」)

神と国家の政治哲学 政教分離をめぐる戦いの歴史 (叢書「世界認識の最前線」)

ホッブズ

ホッブズによる治療プログラムの後半部分は、手始めに大学から哲学と科学を刷新することであった。中世の大学を、ホッブズは、彼が言うところの「暗黒の王国」の首都、人間の心を支配するため、暗黒と狂信的な教義を増殖させる「偽善者たちの同盟」が住みついた町であるとみなしている。そこに光をもたらすため、君主に関するキリスト教の新しい解釈がカリキュラムになることをホッブズは要求した。魂、生命と死、デーモン、良心、イエスの再臨、安息に関する古い教義のすべては投げ捨てられ、公共の福利に貢献するものと取り替えられるべきであるという。(略)
リヴァイアサン』は幾何学的数学の精度をもって、仲間からの恐怖や地獄に堕ちる永遠なる劫罰から解放された個々人が、自らを世俗に、また自分の運命を改善する報いある仕事に適用させることができる世界を、いかにして創りだすかを論証している。(略)
その自由にはたったひとつ制御装置がある。それは恐ろしいものである。全権を持った君主、「地上の神」がいることであり、彼は抑制されない権威を持っている。(略)
多くの者は、ホッブズの言う君主像に、今や世俗の福音を備えた形ではあるが、東方教会で実施されていた皇帝教皇制の古い政治神学の復活を見た。他の者たちはそれとは違い、そこに20世紀の政治全体主義の薄気味悪い前兆を見た。

ヒューム

生きるために賢明な唯一の方法は、ヒュームが示唆するところによれば、不確かさに囲まれているという事実をわれわれが受けいれることであり、慣習や普通の感覚に依存しなければならないことである。(略)
宗教の悪い影響を統制する最善の方法は、全権を持つ君主によって率いられているような市民宗教を押しつけないことであり、人々の好奇心を生産的な目的へと向け直す条件作りをすることである。

ロック

若い時代のロックは、国家によって統制された単一の認知された信仰のみが、宗教的情念の特つ不合理な原動力を統制できるとするホッブズに同意している。(略)君主は「必然的に自分の民のあらゆる取るに足りない行為については、絶対的で専断的な権力を持たなければならない」と論じた。取るに足りない行為という場合、彼はそれによって、宗教礼拝の方式を意味していた。だが続く十年後、宗教心理学のより明晰な理解を発展させるに伴って、ロックは自分の気持ちを変えた。他の人が何を信じているのかをわれわれは実際に知ることができないこと、(略)自分たちが何を信じているかについてわれわれは自ら統制することはできないのではないか。ロックはそれを確認する作業を始めたのである。(略)
[降伏し財産家族を征服者に差し出した中国市民が]弁髪を切断しろと命じられた時、彼らは抵抗を決断し、死を賭した戦いをしたという。こうしたことは、人間の心をおおっている信仰や慣習の力である。そしてそれが、ホッブズが可能だと考えたやり方で公的宗教と私的宗教を識別するのは不可能であるとする理由だという。ごく僅かな宗教的違いを抑圧し抹殺することは、裏目にでるだけである。われわれは単純に自分たちが信じているものに過度の愛着を感じているのであるが、それはそれを信じているのがわれわれだからである。(略)
彼は、宗教的寛容さと国家宗教の廃止を力説した。(略)
ロックと彼の追随者は、端的に寛容で自由主義的秩序がより魅力的な地上での生活を形作るにつれて、死後の生に関する諸々の思想は日曜日の礼拝に委ねられることになると請けあったのである。(略)
地上に存在する神の国を考えることよりも、むしろ彼らはこの地上での生を神の国とは分離させる実践方法を学び、神の国をそのものとして受け流すことを学ぶであろう。

カント

[理性の能力は]受け取る情報を処理するだけの受動的な能力ではない。それは、そのもの自体の秩序と一致とを作り出す渇望を含む、秩序への好奇心とその渇望によって突き動かされる能動的な力である。
(略)
だが、先験的錯覚が意味しているのは、神はひとつの「観念」であると言明することであろうか。神は単なる虚構であり、われわれのイマジネーションの幻影、われわれがそれなしには説明しえないひとつの仮説であることを意味するのか。まったく逆のことを、カントは主張している。理性の必要性は純粋で正当であり、その必要性の中に観念の必要性が含まれる。形而上学が神についての純粋な知識をわれわれには何も提供しない一方で、それと同じく真実なのは、理性の働きにおいて神の観念が重要で実際に欠くことのできない機能を果たしていることだ、とカントは論じる。有名な彼の表現によれば「それだから私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった」という。カントは、近代科学においては神の観念を使用する余地はほとんどないに等しいと見ていた。近代科学は、神を第一原因とし、知力に命じる存在と推定しうるかもしれないが、神そのものについてそれ以上のことは何も言うことができないのである。だがカントが言う「実践的」的利用において、即ちわれわれの現行の道徳生活において理性に命じるには、より高度に発展され、より高度に鍛錬された神の概念が、無条件に決定的であると彼は考えた。ホッブズは、神についてのわれわれの観念が主として恐怖や無知から生じてきた──要約すれば、より低い起源から生じてきたと疑っていたのである。われわれ自身の神に向かう本能を形作る際に、心情は信頼のおけるガイドであるとルソーは考えた。カントは、恐怖はデーモンについての観念を生みだしたかもしれないし、また心情は宗教的な一般概念を撹拌してあいまいなものにするかもしれないが、その一方で、神についてのわれわれの荘厳な観念は、われわれの至高なる能力、われわれの理性からのみ生じえたと示唆している。

明日につづく。