西洋音楽論

アフタービート(=UP BEAT)

そもそも、二拍子というのは本当に一拍目が強く、二拍目が弱いのだろうか。(略)実際に欧米系の演奏家の演奏を注意深く聴いてみると(略)教科書的には弱い拍とされている二拍目が強く弾かれるのだ。(略)ジャズやロックのみならず、クラシック音楽であっても彼らはアフタービートで演奏しているように聴こえる。

ベートーヴェン

「久しぶりにベートーヴェンを弾いていて思ったのだが、なんてアクセントが多いのだろうと。しかも、それが決まって一拍目に書いてある。もし一拍目は強く弾くという事が音楽家の了解事項だったなら、これ、ちょっとうるさいと思いませんか。(略)
もし、彼が音楽は二拍目が強調されるのが『自然』と考えていたら、そして、そういう『作法』で作曲していたらとしたら、黙っていればその作法では通り過ぎてしまう一拍目に、時々アクセントを書き込みたくなる気持ちはわかる気がする」
「何の為に?」
「音楽を回転させる為だ。二拍目に背中をドーンと押されて次の拍に進む。進んだところが一拍目だ。で、すぐにまた二拍目はやってくる、そしてまたドーンと押される。こうやって音楽は廻っていく。車と一緒だよ。その上でしばしば、ベートーヴェンは一拍目でさらにエンジンを吹かせて、いや、馬に鞭をいれてといってもいいが、どんどんこの『音楽の車輪』を回転させたかったのではないか。

『運命』

あのテーマは「タタタターン」ではなく「『ン』タタタターン」と書かれているのだ。(略)
「あれは八分休符で始まり、そのあとに八分音符が三つ続く。あの衝撃的な開始音は後拍で始まる。これは、アフタービート以外の何物でもない。そして、このいわば、ジャズやロックでいえば『食った』ようなアフタービートのパターンが連綿と休む事なく一楽章の最後まで続く。いってみれば、ビートのお化けの様な音楽だ。こんな作品を書いた人物は後にも先にも彼一人だ。(略)
[聴衆の]興奮ぶりを当時の資料で読むと、なんだかそれは、私が若い頃ロックコンサートに行って頭に血が上った時の感じに近いのだよ」

装飾音、モーツァルト

モーツァルトが十六分音符を四つ書こうとした場合、非常にしばしば敢えて八分音符一つと十六分音符二つを書き、その初めの八分音符に装飾音を付けた」
「そして、実際には十六分音符四つに弾かれます」(略)
では、何故モーツァルトはそんな面倒な書き方をしたのだろうか?(略)
[一方で]十六分音符四つだけで書かれた譜面もたくさんある。この両者の違いは何だと思う?」(略)
「(略)[ずっとしっくりこなかった。つい最近モーツァルトの父親の書いた]『基礎的ヴァイオリン技法』の第9章を読むまでは。……そしてそこには驚くべき指摘がしてあったのだよ。彼の書いたことを要約すると『もし、ある音を装飾されたくなかったら、その音を装飾音として書き込め。装飾音にまた装飾を施す演奏家はいないから』。先の十六分音符の例に戻って説明すると、もし、単純に十六分音符四つで書くと、その最初の十六分音符に装飾を付けて演奏される可能性がでてくる。それを避ける為には、最初に私が書いた様に装飾音を伴った記述にする。この書き方でも十六分音符四つに弾かれ、尚かつ、この装飾音にまた装飾をする馬鹿な演奏家はいないというわけだ。言い換えれば、モーツァルトの装飾音は装飾を拒否する為のものだったのだ(略)ということは、モーツァルトが装飾音を付けずに書いた音符は、原理的には、いくら装飾されても構わないと考えていたのではないか。

ドミナント

日本では「属和音」と言うが、酷い訳である。(略)
[英語だと]「優越している」という事に他ならない。では何に対して優越しているのか?それは主和音以外の他の全ての和音に対してだ。では、何を以て優越していると言うのか?それは、このDOMINANT和音だけが特権的に主和音に進行出来る事を以てして、である。
この、ドミナント=優越、という言葉が象徴的に示しているように、畢竟、調性音楽において、一つ一つの音は平等ではないのである。ではその頂点に立つ、主和音の中の一番大切な音、ドミソのドの音、即ち主音とは何だろう?
神だ。キリスト教的な世界観において。
(略)神に始まって神に終わる、壮大なヒエラルキーを形成しているのがヨーロッパの音楽なのだ。

スウィング

モーツァルトにスウィングが重要だなどと言う先生は、多分日本のどこの音楽大学にもいないだろう。(略)
端的に言って、クラシック音楽は細分ではなく、拡大されたスウィングに纏まろうとする。
四分音符二つが纏まり、四つが纏まり、八つが纏まって小節線を超えたフレーズが形成されてゆくのだ。しかるに、日本人演奏家の多くは、ディジタルに拍節を細かく割って考えてしまう。四分音符を二つに分け、さらにその一つ一つをまた二つに分けて、細分化された細かい音符を合わせようとする。その上、例えば音符を四つ弾く場合、正確にその四つを同一の長さ、音量、音色で弾こうとする。これでは、スウィングは生まれない。そればかりか、音楽にすらならない。(略)細分化にばかり目を奪われるから、日本人の演奏からフレーズが聴こえない。フレーズが無いという事は、いくら正確に弾けても、何も、感じたものを主張していない、か、何も感じていないに等しい。

邦楽

三味線はヴィオラとほぼ同じ音域なのに、ヴィオラの倍近い長さの弦を張っている。この事が、構造上細密なピッチを掴むことをさらに難しくしている。音程ということでいえば、太夫達が複数で謡う、或いは語る場合、そのユニゾンの音程はまず合わない。篠笛もまた旋律の廻りを縫うようにして吹かれ、一体どのピッチが本来の旋律であるのか、判定する事は難しい。明治期に日本を訪れた動物学者エドワード・モースも、日本の音を、とても音楽とは思われないという旨の感想を残している。
 だが、こうした聴き方は全て、ヨーロッパの「MUSIC」を聴く場合の聴き方である。邦楽を聴く際にそれを援用する事自体に、無理があるのだ。太夫達の謡も篠笛も、奏でられているのは節であって、旋律ではない。求められているのは、微妙な音程のずれから生じる音色で、ハーモニーではないのだ。
(略)
邦楽の持つ間や、たった一音である種の精神世界を作り上げてしまう音や節の力は、とてもヨーロッパの和声やリズムでは説明できないのである。
 人間が音で何かを主張する為にあるのがヨーロッパの「MUSIC」であるなら、邦楽が作り出す音の世界は、個に、主張する事を委ねず、自然そのものへの融解を示唆していると言ったら、漠として要を得ないだろうか。

ボウイング

往々にして器楽のレッスンでは、生徒が上達者であればあるほど、「もっと歌って」という指示が先生から飛んでくる。その時殆どの生徒は、音が大きくなり、ヴィブラートが増し、ヴァイオリンであれば、弓を一杯に使う。これが、器楽における「歌う」という事だと、多くの演奏家は思っているようだが、それは本質的に聞違っている。(略)幾ら美しい声で「オ、ンガクニヤク、ド、ウガウマレル」と歌っても、「音楽に躍動が生まれる」という日本語のメッセージは伝わらない。器楽作品で「歌う」とはつまり、音符の連続をどのようにフレーズで区切って弾くかという事なのである。それが、その演奏家のスウィングになり、その演奏家の文字の無い言葉になり主張になる。従って、ボウイングをどう作ったら良いかわからないヴァイオリン奏者は、語るべきものの何もない弁論者でしかないのである。