『新約聖書』の誕生・その2

前日のつづき。

『新約聖書』の誕生 (講談社選書メチエ)

『新約聖書』の誕生 (講談社選書メチエ)

ヘブライ人への手紙

キリストが最高の大祭司であり、自分自身を犠牲として捧げたのだから、もうこれ以上の犠牲を捧げることに意味はなく、したがって神殿での犠牲の儀式は乗りこえられてしまったと主張されている。つまりユダヤ教にたいするキリスト教の優位が証明されている。
 しかしユダヤ教にたいする論争が意図されているのではなく、キリスト教徒にたいしてユダヤ教的習慣を尊重する必要がないことを説得するのが目的である。旧約聖書の価値は認めるが、それはキリスト教の位置を理解するために有効だからであって、キリスト教徒が旧約聖書に拘束されるのではない。後半では、道徳的勧めが記されており、また組織的秩序を尊重すべきことが強調されている。

ヨハネ福音書

敵対者として「ユダヤ人」という名が頻繁に用いられる。イエスユダヤ人だが、それ以上に、イエス受肉した神の言葉である。神の赦しは、イエス・キリストの業によってあたえられる。キリスト教ユダヤ教を超越している。またキリスト教は洗礼者ヨハネの流れにたいしても優越している。弟子たちは聖霊を受ける。共同体の団結は愛を基礎としている。道徳上の具体的教えは後退し、信じる者は「世」に属していないとされる。「滅びの子」は滅ぶ。(略)セクト的にならざるをえない立場である。

ヨハネ黙示録

[ローマ支配に否定的にもかかわらず]著者により現在はローマが世界を支配しているとされている点は、注目に値する。(略)ローマの支配は、最終的には神の側からの直接的な介入によって破壊されるのだが、とりあえずなすべきことは、書かれた文書に権威を認めて、キリスト教共同体組織のなかで、それが朗読されるのを聞くことである。こうした態度が、ローマが支配しているとされている状況に対抗するために、有効なものと考えられているのである。

グノーシス主義

グノーシス主義によれば、「良い世界」と「悪い世界」がある。それぞれの世界に神がいる。(略)「悪い世界」は、我々がいるこの世である。(略)
「悪い世界」の神が、ユダヤ人の神ヤーヴェである。(略)
「良い世界」の一部が「悪い世界」に混じりこんでしまっている。それは光の粒のようなものであり、人間にふくまれている。しかしすべての人間がこの光の粒をふくんでいるのではない。(略)「悪い世界」を滅ぼす前に、まずこの光の粒を「良い世界」に取り戻さねばならない。ところで光の粒をふくみこんでいる「霊的人間」は、外部から何の働きかけもないと、自分がじつは「良い世界」に属する者であることに気づかない。そこで「良い世界」の「父」は、「悪い世界」へ「使者」を送る。この「使者」が、ユダヤ教グノーシス主義では、「魔術師」と呼ばれたサマリア人シモンであったりする。キリスト教グノーシス主義では、この「使者」はイエスである。「使者」は定められた活動を行い、特に弟子をつくって、そして「良い世界」に帰っていく。(略)
福音書の言葉では、与えられるものは外部にある。これたいして、グノーシス主義の言葉では、見出すものは自分の内にある。それは自分にふくみこまれている光の粒である。

マルキオン

エスは律法を排そうとしたのであり、したがってパウロはイエスの唯一の真の弟子である。しかし教会はパウロのイメージを改竄し、パウロを律法主義の道徳教師にしてしまい、旧約聖書の神の業と、イエス・キリストの父の業とを、根本的に同一のものとしてしまっている。(略)
彼は、流布しているテキストはオリジナルのテキストではないと主張し、オリジナルのテキストを彼なりに突き止めて、それが正当なものだと主張したのである。(略)
彼の新しさは、「権威ある文書」の範囲をはっきりと限定したところにある。それはマルキオンが権威を認めなかった他のキリスト教文書にたいしてばかりではない。口承伝承はすべて否定された。また旧約聖書の全体も否定されたのである。

テルトゥリアヌス

160年ごろカルタゴに生まれ、ローマで法律家として仕事をした。(略)
 ラテン語ではじめて「新約聖書」という表現を文書のなかで用いたのは彼である。しかしテルトゥリアヌスはこの表現を、ラテン語圏のキリスト教徒たちのあいだですでに広く用いられている表現として記している。旧約聖書が「律法」と「預言者」で構成されているのにたいして、新約聖書が「福音」と「使徒」からなることもはっきり述べている。