真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男

イワン・ゴメス

[猪木に挑戦してきたゴメスを練習生として抑え込んだ新日。佐山が入門した時は道場で村八分状態]

佐山は「あの頃の新日本には、これで絶対に負けないぞっていう雰囲気がありました」と言うと、右手の親指と人さし指を立てた。(略)
 「みんな意地でも[ゴメスに]負けないわけですよ。(略)
 ゴメスのことを藤原喜明に訊くと冷ややかな調子だった。
 「首絞めは知ってたよ。あとヒールホールド。ヒールホールドはあいつから教わったんだ。他はそんなに大したことなかったよ。

(略)

敬愛する猪木に挑戦してきたゴメスに藤原たちが冷たく当たったことは想像できる。
 一方、入門したばかりの佐山は真っ白な状態だった。(略)
 「ぼくは雑誌とかを読んでいて見よう見まねで、キックボクシングみたいに腰を入れて蹴っていた。すると、彼は駄目駄目って言うんです。彼の蹴りは足蹴り、ちょこんと蹴るだけです。(腰を入れて蹴ると足を)取られちゃうということでしょうね。あのときは理解できませんでしたけど」

 ゴメスは写真を見せながら技を説明することもあった。
 「こうやって上に乗っかるんだと。今から考えれば、マウントでのコントロール、ポジショニングの重要性を必死に話していた。それはゴッチさんの教えにはなかった」
 後に佐山は総合格闘技を作り上げる中で、ゴメスの教えを思い出すことになる。

ルスカ

[猪木との試合前に藤原とスパーリング]

一〇分間で一〇回以上極めた。(略)でもルスカが(関節技)を知らなかっただけだよ。俺が勝ったというのは、俺たちのルールの上での話で、彼の強さには関係ない。柔道着でやっていたら三秒も俺は立っていられなかっただろうな。その後、俺がヨーロッパに行ったとき良くしてくれた。あのときの負けは負けとして認めていた。一生懸命闘ったからこそ、友情が生まれたわけだ。彼はサムライだよ」

猪木対アリ戦

[北沢幹之との佐山のデビュー戦は猪木対アリ戦へ]向かう緊迫した空気の中で行われたのだ。
 アリ戦を想定した練習に佐山も加わっている。
 「滑り込みながらのローキックをやるじゃないですか。あの練習もぼくとやったんです。パンチに対して逃げながら蹴る。それじゃ効かないんで、(相手の懐の中へ)入っていった方がいいんじゃないですかって言ったら、藤原さんから"おめーやってみろ、この野郎"って風に殴られた。入っていって、バーンと蹴った方が体重が掛かるので、すごいローキックになるんです。そういうのはまだ理解してくれなかったですね」
 一方、新日本プロレスで唯一ともいえるボクシング経験者の北沢は、猪木の練習を遠巻きに見ていた。
 「自分が下手なことを言わないほうがいいと思っていたんです。ただ、猪木さんの偉いところは人の話をきちんと間くこと。六回戦ボーイのボクサーが教えに来たことがあったんです。他の人間は六回戦の奴が何を教えるんだって、相手にしなかった。だけど猪木さんだけは真剣に聞いていました。格闘技に関してすごく素直な人なんだなと見ていました」

 北沢によると、猪木がアリ戦でとったマットに寝転がるという策は、イワン・ゴメスがブラジル帰国前に教えたという。
「昔、柔道家がボクサーと試合をしたとき、そういう体勢で闘ったと聞いています」

二人乗りベンツ自転車

 佐山が道場の近くに住む小学生たちと遊んでいたという記憶が小林邦昭にはある。

「練習が終わると、子どもたちが呼びに来るんです。飯を食う前に佐山たちが笑って走り回っている声が聞こえましたね」

 佐山は子どもたちに「シェリフ」と呼ばせていた。

「向こうは小学校低学年、一年生、二年生の子どもたち。野球したり、缶蹴りしたり、鬼ごっこしたり。佐山も本当に楽しそうな顔で遊んでいましたね。可愛い顔をしていたから、女の人にもモテたはずなんですけれど、本人、あまり興味がなかったみたい」

(略)

[ある日誘われ]外に出ると、見たことのない銀色の乗り物が停めてあった。車輪四つ、横にサドルが並んでいる二人乗りの自転車だった。
 高かっただろうと小林が目を丸くすると、佐山はメルセデス・ベンツ製で二十数万円もしたのだと事も無げに答えた。(略)
 佐山は助手席に小林を乗せると、自転車を走らせた。ペダルは助手席側にもついていた。(略)
 「大きさは軽自動車ぐらいはあった。近くまで行くだけかと思ったのだけれど、全然停まらない。こちらも意地になって、何も聞かなかった。ただひたすら一生懸命漕いでましたよ。いつ引き返すのかなと思っているうちに、経堂辺りまで来ていた。辺りは真っ暗になっちゃうしね。ライトは点いていたけど」
 大通りを走っていると、追い越していく自動車に乗った人が不思議そうにじろじろ見たという。(略)
 佐山はこの自転車をいたく気に入っており、小林と二人で大会が行われる田園コロシアムまで乗り付けることもあった。

目白ジム

[身分を隠し目白ジムで練習していたが、やがてバレ、猪木に連絡が。目白ジム通いは]

新日本への批判とも受け取られる可能性があった。ところが猪木は佐山を呼び出すと、練習熱心だと褒めた

(略)

 佐山の目白ジム通いを猪木が黙認したことは新日本の道場に新しい風を入れることになった。

小林は佐山が道場のサンドバッグで蹴りの練習をしていたのを覚えている。

「佐山に教わってぼくもやっていましたよ。それまでキックといえば、プロレスではストンピングなんですよ。(略)

[キック]をプロレスに持ち込んだのは佐山ですよ」

(略)

[猪木対ザ・モンスターマンの前座でユキーデ対鈴木勝幸戦](略)

[新間寿談]

「(略)あのときWKAの人間がユキーデが絶対に勝つと言い出したんだ。一方、梶原先生と黒崎先生は鈴木が勝つと言い張る。(略)[互いに500万を賭けたら、ユキーデがKO勝ち](略)

梶原は慌てて半分に減額できないかと言い出してきたという。

(略)

 ユキーデの強さに可能性を見た梶原、新間、そして黒崎は、マーシャルアーツとキックボクシングの対抗戦を企画することになった。

(略)

「黒崎先生の方から"誰かレスラー出してくれませんかね"という話があった。(略)

[新間は佐山の目白ジム通いを知らず]

黒崎先生は自分が育てた佐山を、私や猪木さんに見せたいというのがあって、そういうことを言い出したんじゃないか」

(略)

[猪木が使用した]グローブを考案したのは佐山だった(略)

ブルース・リーの映画に出てきたグローブを参考にして[リングシューズを作っていた]近藤靴屋さんに作ってもらったんです。(略)

グローブを見た猪木は「いいな」と言って試合で使用することを決めたという。

「ただ、試合が終わった後(略)太すぎたと言われました。大きすぎて脇を差すことができなかった。やりにくかったと」 

マスク

[新間が大塚直樹に手配させるのをすっかり忘れており]

大塚によると「四日間ほどしか時間がなかった」という。

 この頃、日本にマスク製作の経験のある職人、工房は存在しなかった。そこで大塚は新日本プロレスにグッズを卸していた「ビバ企画」に頼むことにした。

「(略)白いマスクにポスターカラーかなんかで描いただけ。マントも同じようなものでした。」

長州の離脱発言

[長州と浜口]はマサ斎藤を伴って、新日本に辞表を提出している。(略)

[新団体設立を匂わせていた長州たちが]猪木らの説得により、『サマーファイトシリーズ』に参加することになったのだ。

 長州に、新団体設立やアメリカ進出を真剣に考えていたのかと訊ねると、何を訊いているのだという風な顔をして「いやー、全然」と素っ頓狂な声を出した。

(略)

「俺の大雑把な考えで言うとね、ギミックでやっていたことが、シュートになっていった。マッチメイクがシュートになった。なぜシュートになってくるかというと、ハイセルとか、色んな問題があったから」
 つまり、長州の離脱発言は、あくまでも彼の率いる「革命軍」の"反逆性"を際立たせるための"仕掛け"だった。自分が不在となるシリーズを盛り上げるために、猪木が作り出したコップの中の嵐だった。ところが、本当に嵐が動き出したのだ。

  佐山もその渦の中に引き込まれることになった。

UWF

[84年3月新間と前田はロスへ、WWFを観戦]

ここで新間はマクマホンから新団体UWFにレスラーを出せないと通告されたはずだ。新間の顔があったとしても新日本、そして坂口を優先したのだ。(略)

 二月から三月にかけて、新間と坂口が会っている姿が目撃されている。坂口は「新団体の情報収集だ」と煙に巻いていたが、新間にはもはや打つ手はないという現実を突きつけていたのだ。

(略)

[3月26日当初佐山が出場予定だったMSGのリングに前田が登場]

 新間と坂口が会合を重ねて練った案はこんな風だったろう――。(略)

前田にWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲らせる。不思議なことであるが、これは藤波が防衛中のタイトルだった。前田はタイトルを持って"凱旋帰国"(略)UWFの開幕シリーズに参戦。このシリーズには新日本から藤原喜明と高田を出す。その後、新日本はUWFを吸収合併。前田と藤波の"二つのベルト"が存在することは、プロレスらしい"仕掛け"に利用できるだろう――。

 この合意は前田はもちろん、浦田も知らない。

(略)

[猪木はシリーズ中に合流すると新間は説明していたが、現れず。以降、猪木に裏切られたと前田はしばしば口にしたが]

これは本意ではなかったという。

「正直言うと、裏切るも何もないんですよ。自分は母親の治療費のためにユニバーサルに行っただけ。裏切られたというのは外に向けたプロレス的なアングルでね。

(略)

[5月、二階堂進日本プロレスリング・コミッショナーとして間を取り持つコメント]

政界に顔の利く新間がUWFの吸収合併に重みをつけるために持ち出してきたのだ。

 この"コミッショナー裁定"により[新日に合併されるはずだったが](略)

UWFの社員たちが納得しなかった。

(略)

一度途切れた、佐山とUWFを繋いだのは新日本の先輩レスラー、北沢幹之だった。(略)

[引退していた北沢が偶然佐山と遭遇、世間話から出てみないかとなった。ちょうど佐山はショウジ・コンチャに不信感を抱き始めていた]

 UWFがどのような団体であるかはどうでもよかった。ショウジ・コンチャと手を切るため浦田が手助けをしてくれる。それが佐山には必要だったのだ。

(略)

[藤原が新日を出ることにしたのは、クーデター直後、猪木に"お前もか"と言われたため。クーデター首謀者の山本からも声をかけられておらず、

"ああ、両方から必要とされていねぇんだって"。そんな時に浦田から誘い]

(略)

 UWFの方向性を決めたのは自分だと藤原は言い切った。
 「なんかの会議みたいなのがあって、俺がこう言ったんだ。"今までと同じことをやっても新日本と全日本には絶対勝てない"って。俺の頭にあったのは(新日本時代の)藤原教室。試合前のスパーリングとかを見ていた記者が"こっちの方が(本番よりも)面白い"って言ったんだ。このスタイルでやったら面白いなというのがずっと頭にあった。あと、俺と前田、佐山とずっと言っていたのは、ボクシングのパンチとアマチュアレスリングのタックル、キックボクシングの蹴り、そして俺たちがやっているの(関節技)を全部合わせたら凄いものになる。(UWFのレスラーは)みんな軀が小さいし、これしかないんじゃないかって」
 佐山は藤原の加入を歓迎した。
 「UWFにセメントの(練習をしていた)仲間が集まった。彼らならば自分の考えを理解してくれるかなと思ったんです」
 佐山はUWFを新しい格闘技のために使おうと考え始めていたのだ。

(略)

 「彼らもぼくのレスラーとしての人気を利用したいと考えていた。それによって彼らは幸せになれる。ぼくも新しい格闘技の選手を育てることで幸せになれる。双方の思惑が合致するじゃないですか」

(略)

 リーグ制も手薄な選手層を補うためだった。

「一つのシリーズを闘うだけの人数がいなかった。だから、うちはガチンコだから試合数をこなすことができないという話にしたんです。 

亀裂 

 前田たちはUWFの道場で通常の練習を済ませた後、蹴りを学ぶためにスーパータイガージムに来ていたのだ。(略)

[当時の映像を見ると]
山崎の脚の動きはしなやかだ。また、高田は習得能力が高いようで、シーザー武志の言葉で脚の振りを修正していく。
 一方、不器用なのが前田だ。鉈を振るように力任せに脚をキックミットに叩きつけた。シーザーから蹴り方を修正されるが、上手くできず首を傾げた。
 この頃、佐山は、脚へのタックルに対応できる蹴りを見つけていた。彼の表現を借りると、腰を回しながら膝を柔らかく動かし「(足先が)最短距離を扇を立てたような孤を描いて(相手の軀)深く入っていく」蹴り方である。佐山はこれを「コークスクリューキック」と名付けた。(略)
 格闘技の技術で最も習得が難しいのが立ち技である、というのが佐山の口癖だ。
 「寝技っていうのは道場に放り込んでおけばいいんですよ。友だち同士がスパーリングをやって技を覚えていく。でも立ち技って違うんです。間合いだったり、構えだったり、ちゃんと覚えないと違った方向に行っちゃうんです」(略)

[前田達に蹴りを教えなかったのは]

「だって(シューティングの)秘密をばらすことになるじゃないですか。今ならばともかく、あの当時は弟子にしか教えたくなかった。蹴りだけじゃなくて、タックルに入るタイミングとかそういうのは秘密にしておきたかった」(略)

 「彼らはなんでなんだと思ったかもしれないけど、レスラーに教える気は全くなかったですね」 

(略)

 リングの上で肌を合わせているレスラーたちは、そうした機微に敏感である。UWFの他のレスラーと佐山との心理的な距離が開いていったことだろう。 

決裂

[第一回Aリーグで前田は四位]

彼が苛立っていたことは想像できる。

(略)

「ぼくは前田を上げたかったんです」(略)
「軀も大きいし、一番いい選手になる可能性があった。でも藤原さんはこう言っていたんです。"前田はまだスターにするのは早いよ。俺たちが引っ張ろう"と」
 年上である藤原や木戸修は立てなければならない。また、若手の高田伸彦山崎一夫に対しても配慮は必要だった。結果として、その皺寄せは前田へ行くことになる。
 まずは前田にこの試合を振り返ってもらおう。
「(佐山が)何を考えているのか分からなくなっていたんです。どんどん性格が変わっていくんです。俺はゴッチより強いだとか言い出したり。俺の言う通りにやらないんだったら、こんな会社は辞めてやるとか。俺は礼儀正しい佐山さんを知っているので、なんで演技しているんだろうって。(略)藤原さんが思い知らせてくれたらええのになあって思っていたんですけれど、藤原さんは何もしなかった」
 試合当日、企画宣伝部長の伊佐早敏男と営業部長の上井文彦が前田のところにやってきたという。

「(略)"佐山さんが問題です。あいつが心を入れ替えるために、やっちゃってください"と。(略)リングサイドまで来て言っていたよね。二人がそこまで言うんだったら、しょうがないなと。(略)だから俺をけしかけたのは田中正悟ではなくて、伊佐早さんと上井」

(略)

[諌めるためだから冷静に掌底を使った。壊すつもりだったらベアナックルでやってると前田。一方、佐山は]
 UWFの方針を巡ってカール・ゴッチと齟齬が生じていたことは認めた。
 「ゴッチさんから"お前のやり方は間違っている"ということを言われました。(略)タイガーマスクのように上手くプロレスができるのに、なぜシューティングなどと言い出すんだという気持ちだったでしょう」
(略)

 「試合前から(前田は)おかしかった。テンパって、何を言っているのか分からなかった。それでゴングがカンと鳴ったら、バババババってぶん殴ってきた。

(略)

[ガチのつもりはないので、プロレス用の蹴りしか使ってない、と佐山]

ただ、ローリングソバットだけは一発行きました」
 佐山はどのように試合を成り立たせようかと、頭を巡らしていた。そんな中、思わず前田の腕を取ってしまったのだと振り返る。
 「瞬間的に取っちゃった。そうするとぼくはバーンと極める癖がある。腹固めですね」(略)
 「あっ、極めたら怒られると思って離したりして」
 前田はこの腹固めについて「佐山さんはいつもそう言っているらしいんですけど、自分は掛けられた記憶はない」と憤然と否定した。

(略)

[やれるなら攻めてみろと亀になった俺に何もできなくて恥をかいたのは佐山だと前田]
 佐山にこの発言を伝えると、「えっ」と言葉に詰まった後、「あの状況でそれはないでしょ」と言って困惑した顔になった。
 「そもそも(亀の体勢になった前田を)本気で攻めてませんでしたよ。本気で攻めたら、色んな技がいっぱいある。UWFのルールだと、亀の状態は蹴りを受ける可能性がある。

(略)

「とにかくぼくは説き伏せていたという記憶しかないです。駄々をこねている人間を試合場でどうするかという頭しかなかったですね。(略)

前田が辞める、辞めるって言うばかりなんで、腹話術を使って、口を開けずに説得していました。(略)

[試合後、藤原らに辞めると言い残し、田中正悟の元へ。藤原、山崎、浦田、伊佐早らが田中と面談]

「[キレたのは扱いが低いからだ]前田をちゃんと扱ってほしい」(略)

と田中はまくしたてた。

「ここにみんなが来たということは、UWFとしては佐山ではなく前田を取るんですね」[と念押し](略)

「では、彼をエースとして扱ってください」

すると藤原は「分かったよ、馬鹿野郎」と頷くように言った。

ケーフェイ』を書いたのは更科四郎

[ターザン山本談]

 「(略)[猪木の]付き人をやっていたときの姿が美しいというか、凛々しかった。若者としてすごく清潔感があって(略)レスラーって色んな欲望がむき出しなんですよ。その中で佐山さんってクリーン。そのクリーンさが別格だなと思っていた」(略)

[経営に困ったナユタ出版が更科四郎に相談に行き、プロレス本がいいとなり、ターザンに声をかけ、二人で佐山に会った]

 「佐山さんってそういうとき、ノーって言わない人なんですよ。何も考えていないのか、関心がないのか(略)

それがどういう意味なのか、わかっていなかったと思う(略)
ぼくはね、どうせ佐山さんで本を出すんだったら、週刊プロレスでできないことをやれないかって。破滅的なことをやってしまえって思っていた。それでぼくががーっと喋るわけです。[それを更級が録音](略)」
 佐山は山本たちが話しているのを、にこやかに見ていたという。
 「佐山さんは非常に無責任というか、自分の名前で本を出すのに、関係ないよってポジションでいるんですよ。いや、ちゃんとその場所には来るんです、律儀だから。ただ、全く口を出さない。そして失礼なことは絶対にしない。あー、どうぞどうぞ、やってくださいって」(略)

[本を書いたのは更科だとターザン]

 「佐山さんは山本さんが作ったって言い続けているんです。本人がそう言ったら、みんな信じるじゃないですか。喋ったのは俺。書いたのは更級さん。俺はどんな進行状態になっているかさえ知らなかった。原稿は一度も見たことがない。全く関知しない。言いっ放しなわけ。更級さんはプロレスファンじゃないんですよ。だから、こんなことを書いたら、えらい暴露本になるとかさ、やばいとか、考えない。俺だって出来上がった本を見てびっくりしたんだもの」

(略)

[タイトルはどうすると更科から言われ、少し前にジミー鈴木と話をした時に耳にした"ケーフェイ"が刺激的でいいと提案]

「(略)俺はね、専門誌で長年慟いていたのに、その隠語を知らなかった。いや、あのときはね、プロレスマスコミの人は誰も知らなかったんですよ。(略)そうか、欺しやがったかって。俺が衝撃を受けたんだから、全部出しちゃえって」

(略)
 山本が前文と後書きに署名を入れたのは、"本文"には関わっていないのだという痕跡を残すためだったと付け加えた。
 一方、佐山の説明はこうだ。
 「そもそも本を作るための取材じゃなかったんですよ。ぼくは(略)普通の社会を知らない。そして(UWFに)仲間がいなかったから、更級さんたちといると楽しかったんです。ぼくにとっては心地良い空間でした。一週間に一回ぐらいは彼らと話していました。(略)」

 佐山は出来上がった原稿を一読し、出版しないように頼んだ。

「(略)ところが(スーパータイガージム専務の)中出さんも賛成しちゃって、四対一でみんなに押し切られたんです」

佐山の蹴り

[石川義将談]
「自分も空手をやっていたし、色んな人の蹴りも見てきました。だから見る目はあると思いますけど、あの人ほど遠くて重い蹴りを出す人はいない。それは天性の運動神経や筋力だけではない」
 石川は空手の蹴りと修斗の蹴りの違いをこう表現する。
 「空手の蹴りというのは(略)基本は力なんです。でもシューティングの蹴りは"抜く"んです。パーンと速く見えるんですが、(力で押し込んでいるのではないので)すぐに戻る。(略)」
 佐山は感覚的な言葉を使って教えた。
――(略)ここに水がドバッとあって、それが一気に放出するような感覚で蹴り足を出すんだ。
――ヨーヨーを飛ばして、返ってくる感じで蹴る。
 レスリング出身の渡部も蹴りには苦労したと振り返る。
 「蹴るのだけれど、蹴るなと教わったんですよ。膝を突き出して速く動かすと、振り子のように膝から下がポーンと出る。それを抜きって言うんです。抜きができるようになると力を使わなくても綺麗に(蹴りが)スパーンと入るようになる。力を使わないからばてないんです」

渡部はこの"抜き"の習得に二年ほどかかったという。

中井祐樹

 エンセンの加入、中井のバーリ・トゥード、そしてグレイシー柔術への傾倒は修斗を変質させることになる。
 「(略)[佐山に付いて出かけることが増え]新日本時代、誰が強かったんですかっていう話を聞いたこともありました。猪木さん、藤原さんは強かったと。ゴメスについては強かったことは強かったけど、チョークスリーパーしかないから馬鹿にしていた。ただ、よく考えたら、あれが一番いいと言うんです。ヒクソンと同じで、あのときからゴメスはそれをやっていたとおっしゃっていました」

(略)
ゴメスはそれまでポジションを取り、殴ることで相手の防御を緩め、チョークスリーパーで仕留めてきた。この闘い方であれば、多くの関節技を必要としない。関節技の数よりも、状況を見て適切なポジションを取ることが大切である。ただ、当時の[グラップリング主体の]新日本のレスラーは、そこに気がつくことはなく、ゴメスを技の少ない人間だと見くびっていた。
 また、ゴメスは強い蹴りを出すこともなかった。それを見て、佐山はキックボクシングの蹴りの方が強いと思っていたという。しかし、後から考えればあれは相手を誘う蹴りなのだと分かった。威力を出す蹴りと、誘う蹴りの二種類がある。当時はそれが理解できなかったと佐山は言った。
 中井は寝技の強い自分に流れが来ていることを感じていた。