セゾン文化は何を夢みた・Pt2

前日のつづき。 

セゾン文化は何を夢みた

セゾン文化は何を夢みた

 

 

  • 難波英夫(セゾン美術館)

「50年代の終わりから60年代は、外国に行って現代美術の情報を仕入れてくるのは評論家ぐらいしかいなかった。彼らの情報は非常に重要だったけれども、東京の数少ない現代美術の画廊と限られた雑誌を中心として、彼らの仕事があった」
[ところが一般人が海外へ行くようになった70年代半ば、評論家の価値は低減]
 なぜ国公立の美術館はゲスト・キュレーターとして評論家に企画を任せられないのか。それは構造的な問題なのだと難波は言う。各美術館の主要な企画展覧会は、新聞・TVの事業部によって予算を含めた大粋が決められ、美術館は彼らに依存せざるを得ない。一方で単なる貸会場化を嫌う学芸員は、評論家を超えるべく自らの専門的論文をカタログに掲載する。その両者のバランスで成りたっているところへ評論家が入り込む余地がなくなっていった。(略)
 「その意味で西武美術館は、評論家を立てたというよりも、仕事の上で評論家が自然と集まって、サークルのような場になっていた」

小樽商科大から大正海上火災で広告担当、30代目前の1961年に設立されたマッキャンエリクソン博報堂に。だがそこでユニクロ楽天英語公用化でも指摘された問題に直面

[外資系だが]日本人を使わなければ日本の広告はできない。でも、日本語だけしかわからない人を使うのは外国人の経営者としては非常に心配なわけ。だから、どうしても通訳の言うことを聞くようになってしまう。(略)そうすると、日本語しかできないけれどいい仕事をする人間が評価されず、広告のことが何もわからない通訳が偉くなっていく。

一年で辞めJIMA電通で六年、堤の理念に魅かれB級百貨店だった西武へ。

[経営者・堤清二と詩人・辻井喬の矛盾をアウフヘーベンするのが紀国の役割]
たとえば、印象派の展覧会をやれば儲かるけど、そんなことのために美術館をつくったんじゃないことは重々承知しているわけです。(略)堤さんの言う文化というのは、現代美術が持つ、時代を変えていこうという問題意識ですから。(略)
堤さんが企業で文化ということを叫び続けてきたのは、文化を自分の問題として考えなさいよという問題提起だったのだと思いますよ。ところがあの人は、そういうかたちでははっきりと言わないんだ。西武の苦しさというのは、堤清二辻井喬がいて、そのどちらがしゃべっているのか社員にはなかなかわかりにくいということだろうと思う

催事場の展覧会とは違い、美術館は一年間を埋めるプログラムが必要。1番目は現代美術、2番目は堤が嫌がる客の入る企画「印象派で十万人が入れば、入場料収入は一人千円で一億円。それで次の企画ができるじゃないですか」と説得。3番目が西武独自の企画。前衛劇、現代音楽から「ジョージ・ルーカス展」まで。

「日本の美術展の成り立ちには独特のところがあります。公共の美術館が力を持っていないので、新聞社が美術館という場を借りて自社のイメージアップに利用してきた。(略)その場を提供し始めたのが百貨店だったわけです。(略)僕たちはそういう日本の美術展のあり方をひっくり返しました。新聞社が持ってくる企画をありがたく受け取るんじゃなくて、いまの時代こそこの展覧会をこういう解釈でやるべきだという企画を僕ら文化事業部が立てた」
 なぜ日本には新聞社が展覧会を共催する伝統があるのか、新聞社の事業部員に尋ねたことがある。彼が言うには、戦後の、まだ外貨が自由に使えない時代、海外から作品を借りるにあたって、保険料を負担できるのが新聞社だけだったからではないか、ということだった。新聞社など報道機関には特別な外貨の枠があったらしい。

紀国は堤に「文化に淫するな」とよく言われた。(略)
セゾングループの凋落と崩壊は文化事業が原因だったと言う人がいる。しかしそれは事情を知らない人の誤解だ。紀国は「宣伝費の10%」という枠で予算を管理していた。