堤清二81歳、リブロの棚

 

セゾン関係者へのインタビュー本。
順番を変えてラストの堤清二81歳の話から。 

セゾン文化は何を夢みた

セゾン文化は何を夢みた

 

 西武鉄道から離れて

[封建領主制度が続いている西武鉄道から離れて]近代化をシコシコやる上で、サブカルチャー路線というのが必要になった。

[セゾンへの名称変更も、西武カードをコモンカードにするというのが表向きの理由だが]
コクドや鉄道とはいっしょにはやれねぇなというのがある。あまりにも違いすぎたから。かなり鉄道も怪しげなことをやっているというのが伝わってきてますしね。暴力団を使ったりなんかしたり。いつスキャンダルに巻き込まれるかわからないという不安もあった。(略)80年代に入ったころから、コクドも西武鉄道さんもおかしくなった。

ところがそこは経営というのはつらいもので、銀行は建物こそ近代的だけど、頭の中は依然として土地本位制です。金本位制にもなっていない、日本の銀行は。だからお金を借りに行くと、土地はいくら持っているの?。
[土地は弟のものだから、「脱西武」は困難]

[消費社会の爛熟に対応して]
パルコみたいなのが大事になる。マーケットの変化に応じて、次々と業態の転換をしていかなければならない。古武士のような百貨店経営者は、そんなものには見向きもしなかった。私は百貨店に殉ずるんだ、命をともにしますというのが三越なんかの経営者の雄々しい姿ですよ。白虎隊みたいな人たちだね。

マーケティング論への異議

[すべてをマーケットに置き換えるのはどうなのか]
消費者の自立にとって、賢い消費者になることにプラスかマイナスかということについて、そういった価値判断がもうひとつなければ、本当の企業としての社会性なんていえないじゃないか。いまなんでもかんでもマーケティング論ですよ。それは盛田昭夫さんと議論してね(略)[ウォークマンはおたく若者をつくり出す道具じゃないかと堤]
だって、売れてるんだよ、と盛田さんは言う。僕は、だから問題なんじゃないですかって言ったけど、通じなかった。僕は盛田昭夫という人を一貫してあまり買っていなかった。井深大さんについては買っていた。井深さんはクリエイトした人、盛田さんはただ広げた、拡販に成功した人。で、自分の思想というのがないんじゃないの、このへんの人は。

安部公房の『燃えつきた地図』を買いにいくも見つからず、店員に尋ねると地図売場に案内され、専門家を育てなければとリブロ設立。

  • 現代美術

(熱気は)本当になくなりましたね。一昨日かな、新しい六本木の国立美術館に『現代中国アヴァンギャルド展』を見に行って、その熱気を痛切に感じました。爆発的です。うーん、これは参ったな、という感じで。日本の院展なんかを見ると、日本の絵描きさんの技術は完璧なぐらい完成されていますよ。でも、迫力が違う。(略)エネルギーという点で見たら、変な話だけど、中国共産党一党独裁が統く限り、中国の芸術は非常に強くなりますね。
(略)
マーケティング絵画ですよ(笑)。それは困るよ。下手でも、エネルギー。オレならどうしたらいいか、と考えさせるようなエネルギーがないと。村上も奈良も会田もいいけれども、あれが日本の絵画文明に新しいものをもたらしてくれるという感じではない。残念だけど。(略)世界で最高におろかなのは日本のコレクターですから。国際的にもてはやされるとどんな絵でも買う。貧しいですね。

ダダイズムというのは第一次大戦当時のヨーロッパ人にとって死活の問題だった。それは趣味の問題なんていう生やさしいものではなかった。だから必死です。ダダイズムに進むか、ソビエトの前衛絵画――その先は社会主義共産主義に進むか、どっちか。いままでの近代主義の枠ではもう芸術は生きていられないという切迫感があって必死だったというのが伝わってきますね。やっぱり日本は、新しい潮流として受け取っているだけ。自分たちの生きる方法として受け取っていない。その差は決定的になってきた。だからこれからですよ。まともな政府がなかなかできないでしょう。アメリカがおかしくなったら、おかしくなったツケを日本に回してくるでしょう。
[その困難な状況から芸術の時代が来る]

  • リブロ・中村文孝

[ラテンアメリカ文学がブームになる前]
 フェアをやろうにも本があまりない。ありったけ集めて、絶版になっている本も出版社に行って借りてきたり、原書を販売ではなく展示だけしたり。(略)
[ブラジル文部省から顔写真を入手するも、パネルにするときに名前をメモし忘れ]
 「誰が誰だかわからなくなっちゃった(笑)。誰かわかる人はいないかって、あちこちに聞いたとき、いま水声社の社長になっている鈴木宏が、わかる人がひとりだけいると言う。(略)のちに作家となる荒俣宏だった。まだ荒俣が日魯漁業でコンピュータのプログラマーをしていた時代だ。
 「『これはマルケスですね。こっちのがカルペンティエール』なんてやっている荒俣さんを見て、いったいこの人は何者なんだろうと思った」

リブロの棚

大人の目の高さよりやや下に、そのときもっとも関心を持たれている著者やテーマの本が並べられている。そして、それを囲むように、左右、上下に関連する著者やテーマの本が並ぶ。(略)
 これは画期的なことだった。リブロ以前の書店の棚は「年表」だった。それに対してリブロの棚は「海図」である。たとえば思想・哲学の棚であれば、その前に立つと、いま・なにが問題となっていて、それが過去のどんなことと関連しているのかが一目瞭然なのである。

「今泉棚」があまりにも有名になったために(略)[リブロの棚は今泉がつくったイメージがあるが]
それまで積み重ねてきたところから出てきたひとつの流れだと思う。(略)[注目される一冊の本から]
どう広げていこうかと考えながら棚をつくっていた」と中村文孝は振り返る。
 その土壌があったところに今泉正光が前橋から池袋に異動してきた、今泉はキーマン、キーワードという言葉を使って、自覚的に海図をつくりあげていった。
(略)
重要なのは中村や今泉がそれを固定したものではなく、つねに更新されるべきものとしてとらえていたことである。それを彼らは「棚づくり」「棚の編集」という。

 今泉はよく著者に会いに行っていた。人文書の書き手だからほとんどは大学の教員である。私などは、「書店員が著者のところに押し掛けていっていいものだろうか」と心配したのだが、今泉は「本屋だから会ってくれるんだ」と言い、ブックフェアや講演会の相談をしていた。ニューアカ・ブームのなかで、書店も著者や編集者と一緒に何かをつくっているんだ、という気分があった。
(略)
 中村文孝は、「営業マンより編集者のほうがよく来る変な本屋だった」と言う。
 「編集者が来て、こんどこんな本を出そうと思うんだけど、なんて。ところがその後、営業マンが来ると、『そんな企画はまだ聞いてないぞ』となったり。

明日につづく。