ブギの女王と服部良一

伝説の真相

笠置がひばりに「ブギを歌うな」と意地悪という伝説の真相。

当時は興行で他人の持ち歌を歌う場合は許可が必要だった。

  • 最初の申し出の場合

笠置の新曲「ヘイヘイブギー」を歌いたいとひばり側が希望するも、発売から日が浅いので、「東京ブギウギ」を許可、といたって当然の処置。伝説では直前に曲を変更させられ出だしをとちったひばりが悔し涙と笠置が悪役に。

  • 二度目の申し出

翌年1950年笠置より一ヶ月早く渡米して公演することになったひばり

渡米直前になって服部のところに松尾興行から、
「ひばりが一足先にブギを歌って回り、その後で同じ曲目で笠置が回るのでは興行価値が低下する。なんとかしてほしい」
 と言ってきた、それで服部が著作権協会を通じてひばりに許可しなかったのである。著作権者の服部が、創唱した笠置を保護するのは当然だ。笠置にとっても、自分のブギをアメリカで歌うことを許可しなかったのは、“正当防衛”だった。現在の常識で判断してもこれは妥当だ。
(略)
ひばりも笠置も帰国後、「束京キッド」「買物ブギー」がともに大ヒットとなったが、倫理的にもビジネスの上でも、ひばりの周辺の人物が、やはりこのままではいけないと思ったのは当然だろう。福島が新聞記者に「笠置と服部にブギを歌うなと言われた」と話して騒がれた以上、メディアの前で“仲直り”する必要があった。(略)
[NHK「歌の明星」で共演、さらに服部の「銀ブラ娘」をひばりが録音]
だが、なぜかひばりはこの歌をほとんど歌うことはなかった。服部もまた、ひばりの歌を二度と作曲することはなかった。
(略)
[笠置を悪役に仕立てたのはひばり母・喜美枝と著者は推測。母の死後のインタビューでひばりは]
 「そりゃ、最初にチビが行って、同じようにうたってしまったらやりにくいわよ。それで後で本物が来た、っていっても、盛り上がらないわね」
 と答え、笠置に理解を示す発言をしている。

笠置は突如歌手廃業、女優に転進

服部克久談)
「おやじさんは怒りましたよ。俺の作った歌を葬り去るつもりか、と。たしかにブギは笠置さんのために書いた。でもそれは彼女一人のものではない。服部良一にも相談せず、笠置さんは勝手にやめた。作曲家は歌手が歌ってくれないと、せっかく作った歌がこの世から消えてしまうことになる。もう踊れないからなんて、言い訳にはなりません。

ブギブームへの服部の苛立ち

[47年の「東京ブギウギ」大ヒットから]二年も経たないうちに服部はそんなブギブームに違和感さえ持つようになる。(略)
笠置にブギ以外の曲を歌わせようとするが、もはや客のほうが承知しない。服部の苛立ちは本来のブギウギを理解しない世間へも向けられ、その思いは数年で爆発する。
[1950年の文章]「私自身は笠置シズ子が適当なブギ歌手とは思っていないのである。ステージの上で、必要以上のアクションで飛び回って歌う笠置シズ子には閉口するのである。それは笠置の持つステージの魅力であって、ブギの持つ魅力ではない。(略)
 服部がこう書いたのは、まだまだ日本中でブギウギが流行している最中だった。服部はここで、「東京ブギウギ」だけが一番ブギらしい要素を持っているとし、そのあと自分が次々と書いた笠置のブギはそこから逸脱しているというのである。そのまま自分が“正調ブギ”を作曲し続けていたら、子どもまで歌うというようなブギの大衆化は見られなかっただろうと嘆く服部。(略)
ブギの大衆化はまぎれもなく敗戦後の日本人に必要だったのであり、服部の言うようにまさに宿命だったのだ。(略)
 この時期、笠置は歌以外に喜劇女優としての道が開けていったことが、ブギ歌手としては逆に苦しみでもあった。(略)
 「ブギが古いといわれるのは心外や」と笠置シヅ子が憤然と語る。(略)ただひところあまりに大きく広がりすぎたもんやさかい、ブギの時代が去ったなんていわれるのや。(略)……新しい歌を開拓したらどうですか。「歌ばかりでなく映画でも冒険したいのやけどさせてくれません。何しろお正月向きのめでたい顔やさかい出てくるだけでお客はゲラゲラ笑う。たまに二枚目の歌をうたいたい思うて“ラブレター”みたいなスローのものを歌ってもパチッとも手が鳴らん。

青い山脈」と軍歌

[監督の今井正は歌詞も曲も垢抜けていないと激怒]
[服部談]「あれは軍歌の名残ですね」
 この言葉に、私はスコブル意外だった。服部が日中戦争に報道班員として従軍したのは中国メロディーを勉強するのが目的で、戦意高揚の軍歌を作曲するのはあまり好きではなかった。中国戦線にいて戦争の現場を肌で知っていたはずの服部が、戦後になって、しかも平和を謳うテーマの映画の中で、軍歌的な要素を取り入れたというのである。リベラルな小説「青い山脈」と軍歌、この二つはどう考えても不釣合いである。服部はこうも言っている。
 「(戦地は)兵隊さんがみんなで歌えるような行進曲風の歌ばかりでした。あの感じがそのまま『青い山脈』のテンポに流れ込んでいます」

終戦

[41年弟戦死。富山で長谷川一夫一座に加わり巡業中]
実演が始まって終戦を知った笠置は、舞台でとっさに「いま誰かがジャズを歌え、と言ったら、私は死にます!」と叫んだ。戦時中、当局からジャズを歌うなど不謹慎だと叱責されて悔しい思いをしながら、その戦争に負けたと知った瞬間、彼女の中で何かが変異した。あんなに歌いたかったジャズが、これからは歌えるかもしれない。だが、この虚しさは一体何なのだろう……。「今考えてもちょっと不思議な心境でした」

吉本興業御曹司との恋

出産後引退を考えていた笠置だったが、1947年5月、9歳年下の吉本興業御曹司・頴右は24歳で急死、6月出産。愛児を抱えた笠置から「センセ、たのんまっせ」と頼まれた服部は「東京ブギウギ」を書き、秋に大ヒット。翌年吉本せい死去、実弟林正之助が吉本社長に。事実婚から父との親子関係を証明することもできたし、吉本側から子供を引き取るという申し出もあったが、笠置はあえて私生児という形を選択。

笠置が終生、肌身離さず身につけていたものに、一枚の名刺があった。それは戦時中の1943年、名古屋の劇場で初めて会った頴右が笠置に渡した、古びた名刺だった。後々まで笠置は親しい人にそれを見せ、「夫が初めて会ったときにくれたの」と言いながら、照れたという。

[トリビア]

  • 1950年笠置実父の友人だった東大総長南原繁は“曲学阿世の徒”騒動の最中、笠置を東大総長室に招き、出生の経緯を説明、翌年後援会長となる。
  • 笠置一行の到着が遅れたことで長谷川一夫一行は洞爺丸に乗らず命拾い。

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