いかにフランクリン像はつくられたか

前日のつづき。
帰国したフランクリンは新聞記者に「本国に甘い期待を抱いてはならない、屈服しないかぎり彼らは満足しないであろう。精一杯の抵抗をしなければ、きわめて惨めな隷従と破壊からは逃れられない」と語った。

ベンジャミン・フランクリン、アメリカ人になる

ベンジャミン・フランクリン、アメリカ人になる

1776年大陸会議は武器援助と同盟締結のためフランスへ送る使節の一人にフランクリンを任命。

フランクリンを選ぶことは論を俟たない。彼は国際的な知名の士であり、他のどのアメリカ人より世界のことに通じていた。
フランクリンは大西洋の向こう側に戻ることを熱望していたようにも思える(略)自分自身の国で彼はよそ者と感じていたのであろう。(略)
 フランクリンの駐仏使節就任が予定されていることを知って、彼の動機を深く疑う者もいた。彼は再度、革命を起こして一つの帝国の国民を「お互いによそ者と敵対者」にしてしまった首謀者であるとの非難を受けた。駐仏イギリス大使やアメリカ人親英派の多くは、彼がアメリカを逃げ出したのは反乱鎮圧が避けられない事態となって避難したのだと考えた。
(略)
[渡仏は危険な航海であり]海上で拘束されて「もう一度冷酷無情な法廷に引き据えられた」かもしれなかったのである。このような航海にまで出た事実が物語るのは、フランクリンの強い怒りとイギリスを打ち破るとの堅い決意である。それとともに、大きなヨーロッパ世界を、自分が成熟期の人生の非常に多くを過ごした世界を、もう一度経験したいという彼の願望である。そして彼が合衆国に戻るまで九年に及ぶことになる。(略)
あの不安定な時期を通じて彼がパリにいなかったとすれば、フランス人はあれほどアメリカ革命を支持してくれることはなかったであろう。そして、あのようなフランスの支援がなければ、独立戦争が勝利に終わることはなかったであろう。

啓蒙家から貴族まで大人気

 ヴォルテールのようなフランスの啓蒙思想家は旧体制を改革しようと奮闘しており、彼らは新世界を自分たちの闘争の武器に使おうとしていた。彼らの目には、アメリカが18世紀フランスに欠けているものすべてを代表しているように見えた。自然の簡素さおよび社会的平等、宗教的自由、素朴な啓蒙精神である。
(略)
 啓蒙思想家に加えて、フランス貴族の多くが自らで自身の社会の批判者であり、今日言うところの「優雅な急進派」を演じていたのであった。(略)旧体制の退廃に取って代わるべきモデルを構想していた。(略)
フランス貴族はフランクリンを待ち受けていた(略)
彼らが最初に今日よく知られているフランクリン・イメージを構築し始めた。貧しいリチャード流の道徳家で、素朴な民主主義者のシンボル、簡素な辺境の哲学者というイメージである。
 1776年にフランスに到着した瞬間から、彼はかの令名高きフランクリン博士であった。
(略)
式典を行う際彼の頭に王冠をかぶせた、と頌栄詩が謳い、自分たちの髪型をフランクリン風にした。彼が馬車で行くところどこでも群衆が集まってきて、歓呼で迎えるなか、きわめて丁重に道を空けるのであった。それは「直系の王族に対してもめったに捧げられることのない栄誉であった」(略)
制作されたフランクリン像の数は驚くほどである。彼の顔はいたるところにあった。彫刻や絵画で、メダルや煙草入れ、菓子箱、指輪、時計、壷、皿、ハンカチ、ナイフにも付いていた。[ルイ16世が不快感を示すほどに溢れかえった]

演じきるフランクリン

 フランクリンの非凡は、フランス人が自分をどう見ているかを理解しそれをアメリカの大義のために利用したことであった。[彼は質素なクエーカーを見事に演じてみせた](略)
ヴェルサイユルイ16世の謁見を賜ったときは、この全ヨーロッパのなかでも最も絢爛豪華で儀礼のやかましい宮廷において、ほとんどあらゆる作法を破ってしまった。他のアメリ使節が王室侍従の指図で入念な宮廷衣装を凝らして着ていたのに対して、フランクリンは自分の質素な田舎衣装を着て現れたのである。しかし、フランス宮廷人はそれが気に入った。彼は「農家の大旦那か」と見まごうばかりで(略)
フランス人はフランクリンのすべてをクエーカーのしるしや共和主義的簡素さへと読み替えた。彼らはこの村の哲学者になんとしてでも興味を持とうとした。フランス人礼賛者にとってはフランクリンの欠点でさえ偉大な徳となってしまった。大きな集まりで彼は黙ったままではないか。これは共和主義的な控えめを物語るにすぎない。ひどい間違いだらけのフランス語を話し、書いているではないか。これは心からの話と文章となっていることを示すにはかならない。

1783年パリ講和条約が成立しフランクリンの役目も終わったが、エルヴェシウス未亡人60歳といい感じで

ジョン・アダムズも気づいていたように、フランス女性は「老人に対して不可解な情熱」を抱いていた。(略)
「私はここで自分を敬愛してくれる国民のなかにいます。ともに暮らして最も感じの良い国であり、おそらく私は彼らのなかで生を終えることになるかもしれません。というのもアメリカの友人たちは次々と亡くなっていますし、こんなに長く海外にいたので、自分の祖国で私はいまや異邦人同然でありましょう」と、彼は1784年に書いた。

帰国して暖かく迎えられペンシルヴァニア共和国の長になるも

 事態は自分の手に負えなくなり、神や摂理の手中にあるというフランクリンの意識が高まったのはおそらく、依然として敵の多くがいた連合会議との不快なやりとりの経験から生じたものであろう。(略)
 フランクリンは国のために厳密に言って何をやったのか。彼はジョン・アダムズのように革命運動の先頭に立ったわけではなかった。ワシントンのように彼は軍を率いたわけでもなかった。ジェファソンのように偉大な文書を書き上げたわけでもなかった。フランス公使としての彼の外交上の偉大な業績も、実際彼の敵は非難の対象とし、国民の大半は正当に評価していなかった。他の建国の父たちの運命と比較して、彼の運命は特異なものだった。アメリカ革命の偉大な人物のなかで、他に誰もフランクリンが経験したような連邦政府による屈辱に耐えなければならなかった者はいなかったのである。
 フランクリンはアメリカに帰還した後で、連合会議に自分の立替金の精算を求め、会議と折衝するように孫のテンプルをニユーヨークヘ差し向けた。(略)
 連合会議は彼の孫のことを無視したばかりか、フランスからのさらなる資料が来なければフランクリンの勘定を精算することはできないと通告した。
(略)
 共和国というものが悪名高いほど恩知らずなことをわかっていたが、彼は合衆国が自分をそれほどまでに冷淡に処遇するとは予期していなかった。「不在のため私事に必然的に支障をきたすのですから、海外任務から帰国したとき外交使節に惜しみなく報奨を与えるのはヨーロッパでは慣例です」(略)
[彼は祖国のための「奉仕の概要」を連合会議への手紙に添付]
 恥辱であろう。フランクリンは自己を哀れむような方法で祖国への奉仕を列挙させられる羽目に陥ったのである。(略)海外での奉仕に対して[同じ使節の]アーサー・リーやジョン・ジェイには報酬が支払われた。(略)
 「私の身に起こったことはどうしてこんなにも違っているのか」と、彼は大声で叫んだ。

1790年死去、享年84。フランスでは大きく扱われたが、「何ヶ月もアメリカ人は、公的な賛辞をいっさい述べなかった」。

 それどころか、フランスがフランクリンを称賛すればするほど、フランクリンのイメージはいっそう大きく損なわれるのであった。少なくとも、フランス革命に反対するアメリカ人の目にはそう映った。1790年代のフェデラリスト派は、彼らの政治指導に対するリパブリカン派の反対がフランス革命に煽動されたものだと信じており、彼らが恐れ嫌うものの大半の象徴にフランクリンを重ね合わせていた。(略)
フランクリンを「わが国の最初のジャコバン派、フランス人売春婦の膝枕を楽しんだ最初の人物、祖国のキリスト教や栄誉をパリの理神論と民衆支配に屈服させた人物」として切って捨てた。フランクリンは「不誠実で狡猾な、偽善的人物」であり、フランス人の背信や狂信を擁護してきたという理解が、フェデラリスト派の通念になった。

その一方で『自伝』等により中間層の英雄となっていく

「彼の輝かしい先例のおかげでこの自由と平等の地において、倹約と美徳でつながった才能ある人々が正当に政府最高の地位を求めることができると人類に確信させますように」。いたるところで同じように親方機械工や職人も、フランクリンにちなんで自らの協会や団体の名前をつけ、その元職人を彼らの運動の象徴にし始めた。
(略)
中間層の人々は、生活のために働かなければならないという理由で彼らを侮辱してきたあらゆる有閑の貴族的な紳士層〔富裕な農場所有者〕に対して、鬱積した平等主義的な怒りをぶつけた(略)
[労働の賛美化がすすみ]
19世紀初めになると少なくともアメリカ北部ではほとんどすべての者が働いていると主張しなければならなかった。貴族的な奴隷所有者のプランターであったジョーシ・ワシントンでさえ、いまや生産的に働く者として描き出す必要があった。(略)もちろん、古典的な意味では、ワシントンは生涯けっして一日たりとも働いたことはなかった。彼はキケロのような農民だったのであり、自らの農園を監督し支配したが、実際にそこで働いたことはなかった。(略)
生きるために働く尊厳を熱心に称賛していたこれらの中間層の人々にとって、働く者の象徴にしていくのに最もやりやすい建国の祖父だったのは、一時期印刷職人だったこともあるフランクリンであった。(略)特に北部諸州では、演説者や物書き、啓発家たちが、低い出自の若い男たちを、一生懸命働いてフランクリンのように立身出世するように励まそうと努めた。(略)
 大部分の中間層の民衆を虜にしたのは、勤勉で本好きのフランクリンというイメージであった。(略)
彼らが規範として見習ったのは、科学者や外交官のフランクリンではなく、勤勉と倹約によって無名から名声と富へと上昇を遂げた若者であった。(略)
幾人かの野心的な人物は、実際自分の出世がフランクリンを読んだおかげだとした。(略)
[偉大な銀行業の創業者トマス・メロンは]フランクリンの言葉を何度も繰り返し読み、かつてないほどに学校で学業に専念し始めた。メロンがとうとう自分の銀行を創設したとき、啓発してくれたことに対する感謝のしるしとして銀行の前にフランクリンの銅像を据えた。(略)フランクリンは「セルフメイド・マン」という新しい急進的な理念を体現するようになったのである。