なぜフランクリンは革命に参加したか

1776年に70歳だったフランクリン。ワシントンより26歳、マディソンやハミルトンとは50歳程年かさ。功成り遂げた後半生33年間の殆どを英仏で過ごし熱烈な王党派だったフランクリンが何故革命に参加したか。

1757年51歳のフランクリン

は課税問題を交渉する代表団の代表としてロンドンへ。本国に惹かれ五年滞在、ニ年ばかり帰国した後、再度訪れ十年滞在。

彼はケンブリッジ大学に招かれ、1758年5月、電気実験をいくつか披露して見せた。(略)
 フランクリンの名声は途方もないものであった。これには単に彼が世界的に有名な科学者であったということだけではなく、大西洋を越えてはるか彼方の荒野からやって来た植民地住民であったということも与っていた。

いまや彼は、以前にも増して自分をイギリスと一体化して考え始めており、実際にストラハンの助言に従ってイギリスに永住することを考えるようになっていた。(略)
 1760年代に入る頃までには、フランクリンは徹底したイギリス帝国主義者で王党派になっていた。
(略)
[領主筆頭トマス・ペンとの交渉に失敗し]
ペンシルヴァニアに国王が統治する政府ができたら、こんな男に支配されるよりはるかに好ましいだろうと、それまで以上に確信を深めた。
[一旦母国に帰国した際に暴動に直面し、無秩序化が進む植民地を収拾するには国王による統治しかないとさらに確信。しかし領主派に破れ、議席を失う]
 フランクリンは自分の敗北に茫然とした。彼は完全に、仲間の植民地往民たちの感情を見誤っていた。この見誤りを彼はその後の十年間も続けることになる。しかし、議席を失っても、彼の政治的な影響力は強力なままであり、彼のクエーカー教徒派はまだ議会の過半を支配していた。少なくとも、いくらかの議員たちは、ペン一族から税金や他の特権を搾り取らんがために、植民地を国王の直轄地にするぞと言って脅し続けたいと考えていた。それゆえ、1764年10月末に、議会は、フランクリンをふたたびイギリスに派遣し、国王にペンシルヴェニアの領主支配をやめさせるよう請願させることを決定した。

帝国の維持

七年戦争の結果、1763年イギリスは世界にこれまでなかったような最も強大な帝国となった。(略)
新しい領土全体にわたって秩序を維持しなければならなかった。それには費用がかかる。(略)
アメリカ植民地人の多く、特にニューイングランド人は砂糖法に立腹したものの、フランクリンは怒らなかった。(略)帝国には費用がかかる。

 ペンシルヴェニアでは多くの人々が、実際フランクリンのせいで印紙税法が導入されたのだと非難していたので、群衆がフィラデルフィアにある彼の新築の建物も例してやると脅していた。(略)
 最初のうちフランクリンはこうした非難に取り合わず、民衆暴動のおそれも一蹴していた。彼には、アメリカ人が印紙税法にあれほど激昂してゆくとは信じられなかった。

本国と植民地の架け橋になろうと尽力するも

[印紙税法撤廃のために議会で活動]
アメリカ人はいかなるかたちの税であれ議会課税権を否定するのかという質問を受けたとき、彼は同じアメリカ人とのずれをついうっかりと見せてしまった。「通商を規制する関税課税権に反対したことはないと存じます。しかし、内部課税権が私どもの代表を送っていない議会にあると考えられたことはございません」と陳述した。印紙税のような内部課税と糖蜜その他の植民地輸入産品に対する関税のような外部課税とをこのように区別立てしたことで、フランクリンは厄介な問題の封印を解いてしまったのであった。
[フランクリンの尽力で印紙税法は撤廃に]

1767年、大蔵大臣チャールズ・タウンゼンドは(略)紙やガラス、ペンキ、お茶など植民地に輸出される多くのイギリス製品に関税を賦課することに決めた。つまり、これなら外部課税となる。たぶん、タウンゼンドはロンドンにいる多くの人と同様に、フランクリンがアメリカ人の意見を代表していると信じていたのであろう。

さらしあげ

[英米融和のために流出させたハチンソン書簡が逆の結果を招き]
イギリス政府の目から見れば、フランクリンはいまや反抗的な植民地の陰険さと裏切りのすべてを代表する存在となってしまった。(略)
[さらにボストン茶会事件勃発]
[枢密院会議で]法務総裁アレグザンダー・ウェダバーンが勝ち誇ってフランクリンを非難した。(略)フランクリンこそ「真の煽動者」であり、マサチューセッツでの大騒動すべての背後にいる「お先棒担ぎ、首謀者」である(略)
 非難攻撃が長々と続き、傍聴人が沸いて嘲笑する間中、フランクリンは黙って立っていた。表情は凍りつき、観ている者になんらの感情も見せない決意であった。
(略)
 屈辱を受け怒りに燃えていたにもかかわらず、フランクリンは望みをすっかり諦めたわけではなかった。彼はあと一年帝国を救おうと試みた。あるときにはボストン港に投棄された茶の代金を、自腹を切って補償したいと申し出たことさえあったのである。

最後の一押し

[チャタム伯爵の調停案に]
海軍大臣、サンドウィッチ卿は立ち上がり、本計画案はそれにふさわしい軽侮の念をもって峻拒すべきであると断固主張した、本案はけっしてイギリス人貴族の手によって起草されたものではありえないと彼は言った。そこで、サンドウィッチは傍聴席にいたフランクリンを見つめ、本案は「この国にいまだかつてなかったほど最も憎むべきで害の大きい敵の一人」の仕業ではないかと想像すると述べた。チャタムの提案はやじり倒されてしまい[否決される](略)
フランクリンにとってこれがほぼ最後の一押しであった。(略)
 続く数週間の間、議会にて「人類で最低の者とか、ブリテンのイギリス人とはほとんど種が違うとか」アメリカ人を傲慢な言い方でおとしめるのを聴きながら、フランクリンは次第に怒りに燃えていった。アメリカ人は嘘つきのならず者と言われただけでなく、臆病な腰抜けであり、陛下の勇兵の相手にはならない、とみなされていた。(略)
自分が仲介できる役割は終わったことを彼はついに自覚した。彼は妻が亡くなったことも聞いていたし、帰るほかなかった。(略)
彼はアメリカ人意識をかつてないほど感じていた。彼の気持ちのうえで、イギリスとは最終的かつ完全に切り離されてしまったのであった。(略)
アメリカに向けて出帆し、熱心な愛国派となった。実のところ、ほとんどどの愛国派指導者よりも熱烈だったのである。

明日につづく。