1989年の村上春樹

柴田氏による11年前のインタビュー。長文引用になってますが、これでも大胆伐採。

代表質問 16のインタビュー

代表質問 16のインタビュー

計算士のように

[長篇は書き終えるまで、その世界に入ったままになるので]コントロールというものがあまりできない。(略)僕の中に入ってくるものをどんどん捌いていってるだけなんです。それはスピードの勝負なんです。ヴィデオ・ゲームと同じなんです。(略)
[「世界の終り〜」の計算士と同じで]
そこのシステムに自分を追い込んでいってるわけですね。だからね、長篇を読み返すのって嫌なんですよね。(略)小説的文章的に読むとね。つまらない書きかたをしてるなあと思うところもあるしね。でも嫌だなと思ってもあとから理性的に書き直すことができない。(略)小説の一部として、まあ有機的に組みこまれちゃっているわけなんですね。(略)その部分だけ綺麗に書き直しても、その文章の勢いというのは変質しちゃうことが多いんです。

二重の時間性と空間性

[村上の小説世界は「こっち」と「あっち」の二つの世界を内包しているが]
でもそれとは別に、僕の意識のなかにはふたつの種類の時間性みたいなものがあるんです。こっちの時間性とあっちの時間性ですね。これは具体的に言うと、僕が小説の舞台として描いている60年代・70年代・80年代の限られた現実の時間性と、それからそういうものを越えた非リアル・タイムの時間性ですね。でも『ノルウェィの森』ではそういう時間性の重層性というのはあまりかかわってこないような気がするんです。だから僕はこれはリアリズムの小説だと感じるんです。実感としてね。
 『ノルウェィの森』というのは、びしっとあの時代に限定しなくてはならなかったんです。もっと極端に言えば、そこから広がってほしくなかったんです。あれはあれとして終わってしまってほしかった。「僕」と緑さんがあのあとどうなるかなんて、僕としては考えたくないし、読者にも考えてほしくなかったんです。変な言い方かもしれないけれどね。だから僕にとってあの小説は他の小説とはぜんぜん違うものですね。

[どうしてみんな小説の「僕」とリアル春樹を同一視するのかという話になり]
たとえばあそこに出てくる料理なんか、僕の趣味というよりはかなり遊びの部分がはいってるんだけどね。だって僕は実際には切り干し大根とか、ひじきとか、こんにゃくの煮物とかそういうごく単純なものしか作らないから、そんなのばかり書いてたら、すぐに料理のネタがつきちゃう。だから適当にでっちあげちゃうわけです。こんなの作れるわけねえよななんて思いながら書いてることもあるしね。そんないちいち真剣にやってるわけじゃないですよ。だからそういう細かいところであまりマジにとられても困るという気はしますね。

たしかに僕と「僕」とでヴュー・ポイントが共通しているという部分はあると思います。(略)僕は「僕」にその視座をいわば貸与しているだけだと思うんです。べつに僕は「僕」によって自分を理想化しているわけではない。(略)僕はただ現実的なデータを与えているだけなんです。それから先は、つまり彼がどう行動するかという行動様式については、それは僕とはあまり関係ないと思います。はっきり言えば僕はあんな風には行動しない。何故なら僕は現実のこの世界に生きているし、「僕」は小説の世界に生きているから。それはぜんぜん違う世界なんです。だから僕と「僕」とをかさねられるとそれはすごく困る。
(略)
僕はそもそもは状況を書きたいんです。状況そのものを。そしてその状況のなかで人がどう動くのかということを書きたいんです。思いとかメッセージとか主張とかが先にあるわけではないんです。まず状況そのものに対する興味があるんです。そしてさっきも言ったように、その状況は二重の時間性と二重の空間性に規定されているわけ。

状況を受け入れ、自己を異化する

内面を描くと足が止まるし、足が止まると必然的に嘘が多くなる。我々を囲む状況というのはどんどん重層的になっていっているしね。それほど簡単に内面なんてほじくれないと思います。(略)
[それで物語が受動的になるのかと問われ]
巻き込まれ、導かれている。結末はある意味では最初からすでに決定されているんです。(略)
19世紀の読者が物語というある種の理不尽さをア・プリオリに受け入れたようには、現代の読者は受け入れてくれないですからね。だからそれをひとつひねる必要があるんだと思う。
(略)
映画で言えばホラー・ムーヴィーなんて好きですね。フェリーニとかタルコフスキーとか『暗殺の森』とかは、そんなに面白いとは思わない。何というかな、僕らの囲まれた現実的状況を解きあかすには、もっと手垢のついていない非現実性が必要じゃないかという気がするんです。(略)
[『異邦人』のような]異議申し立ての小説みたいなのはあまり好きにはなれないんです。(略)僕としては、そういうのはもうわかってるんだ、というところから話を始めたいというのかな。そういう不条理というか、異物としての状況を前提として飲み込むところから話が始まらなくてはならないような気がするんです。それをすんなり認めちゃえということじゃなくてね。
(略)
状況と自己の関わりについてスタティックに考察するよりは、状況を前提として飲み込んでいくこと、そしてある意味では自分自身が異化していくことのほうに小説的に興味があるんです。(略)
[例えばジョン・アーヴィングの小説は構成はまともだが]
全体像として見ると、これはやはり何か奇妙なんです。奇妙な人々が出てきて、奇妙なことが奇妙な順番で起こる。でも登場人物はそれに対して「これは奇妙だ、これも奇妙だ」とは言いたてない。騒ぎたてない。むしろ静かにそれを飲み込んで行動するわけです。
[そこに彼の面白さ新しさがある]
(略)
立場も作風も違うけれど、ティム・オブライエンもそういう文脈で面白い作家ですね。彼の場合はヴェトナムでの実戦体験が小説の核になっている。ほとんど戦争の話しか書いていない。でも彼はその体験を徹底的に分解しちゃっているんです。(略)
否定するにはあまりに大きな状況だから。だから受け入れる。そしてそれを受け入れることによって、そこに幻想が生じるんです。幻想を生じさせることによって自分を状況にあわせて異化し、それによってサヴァイヴァルするんです。現実と幻想の明確な境界線が消滅していくんです。

いま小説が面白い

 そういう意味では小説家というのは今意外にいちばん新しい試みをしているのではないかなと思うこともありますね。いちばん面白い方法を試しているんじゃないのかと。最近何か面白いと言って、小説読むのがいちばん面白いですね。他のメディアがやれないことを小説がやっているという気がするから。これまではどちらかというとサブ・カルチャーがその異議申し立て的アクセスを行なってきたんだけれど、今は小説が小説的にそっちに向かいつつある。読者も、そういういわばメイン・カルチャーの対応を求めていると思う。(略)
僕らはね、実際的にはもう長いあいだ異議申し立てなんかしていないんですよ。誰ももうノオとは言えなくなってしまっている。僕らが最後にノオと言ったのは1970年です。それ以来誰もノオと言ってないんじゃないかと思うんです。そのあいだ状況は僕らに対して何度もノオと言っている。

孤独な時代

僕らはもう共闘することはできないんですね。それはもう個人個人の自分の内部での戦いになってくる。というか、もう一度そこの部分から始める必要がある。状況をどう受け入れるか、どう自分を異化させるか、そこでどのような価値観を作っていくか。ちょうど『羊をめぐる冒険』で「鼠」が羊を飲み込んだみたいにね。ひとりひとりが自分でそれを飲み込まなくてはならない。そこには共闘というものはないですね。シンパシーを感じあうことはできる。共感することはできる。でも共闘はできない。そういう意味ではむずかしい時代ですね。孤独な時代だと思う。だからもし僕の小説がある種の人々のシンパシーを得ることができているとすれば、それはそういうことだと思うんです。(略)
僕にやれるのは自分を個として確立しつづけることですね。さっきも言ったように、それを飲み込み、自分を異化し、そして価値観を検証する、それだけですね。限りなくそれをやっていくしかない。そうしていれば、僕らはどこかにたどりつけるかもしれない。僕は『エルム街の悪夢』という映画が好きなんだけど、あれと同じですね。フレディーはみんなの夢の中にもぐりこんでくる。僕らはそれを受け入れなくてはならないと思う。そして一人ひとりがそれと戦わなくてはならない。ああいう映画好きですよ。『暗殺の森』なんかよりずっと有効だと言いたい。

柴田氏によるジョン・アーヴィング架空インタビューも面白いYO。
あと関連話がちょっとあるのだが、長くなったので別の日に。