普天間の謎、ゼニゲバ守屋

ゼニゲバ守屋で迷走。

普天間の謎―基地返還問題迷走15年の総て

普天間の謎―基地返還問題迷走15年の総て

 

普天間基地返還

 言うまでもなく、普天間基地返還をそれまでずっと希望し、計画し、働きかけ、運動してきたのは沖縄側である。しかし(略)安定的な基地使用の政治的基盤を作ろうと普天間基地返還を仕掛けたのは米国側だったのではないかという感触が強い。
 本来、日米地位協定第二条三項によれば、米軍が使用する施設及び区域は、この協定の目的のため必要でなくなったときは、いつでも日本側に返還しなければならないことになっている。そこで、米国側としては、普天間基地が必要なくなったわけではないが、日本側の強い要請に基づいて日本に返還するという措置を取ることによって、少女暴行事件後の日本側の不満を政治的に補填しようとしたのではないかと思われる。
 すなわち、普天間基地問題は、米国側から見れば、日本側の強い要請によって進められる必要があった。

1996年橋本・クリントン会談

[会談前、日本側は普天間の話は時期尚早という判断だったが]
首脳会談の中で、一向にこの問題を切り出そうとしない橋本首相に対して、クリントン大統領が「橋本さん、あなたにとって沖縄の問題でいちばん重要だと思うことは何か?」と誘い水を向けてきたので、その誘いに乗るかたちで、橋本首相は「これは自分もなかなか可能だとは思わないけれども、普天間基地というのは沖縄からの強い要請もあり、非常に重要だ」と答えたのである。
(略)
報道を見て、「駄目なものをなぜ出したのか」と驚いた防衛庁や外務省の幹部も多かったといわれる。一度「普天間飛行場の返還が可能」と公表してしまえば、万一にも後に引くことはできない。

日米政府軋轢

在日米軍再編協議における具体的な詰めを2004年7月の参議院選挙の後まで先送りしようとした[日本に苛立つ米国](略)
2004年春から、かなり秘密にしていたはずの米軍再編計画の一部が報道され始めるや、基地や部隊のある地元は大騒ぎして、それがまた、一面トップ記事になり、国会でも取り上げられるという事態が発生した。さらに、それでも日本側が米軍再編計画に対して、なかなか日本としての方針を示さないので、米国側がワシントンの日本側メディア駐在員にリークして、新聞記事に書かせたりして既成事実を重ねようとした。[今度は日本が不快感を抱き、こじれだす](略)
[同年9月提示の日本案に]
米側は、「外務省と防衛庁では言っていることが違う。司令塔はどこだ」と困惑(略)
 もともと沖縄の基地問題は、米軍再編の流れに乗せられる性質のものでなかったことは先に述べたとおりである。しかし、ドイツから米軍が引き、韓国から米軍が引くなら、沖縄が例外であってよいはずがない。「在沖海兵隊移転」の報道はこうした日本側の熱意を煽りかねなかったため、米国側はそうした動きを否定する発言を重ねて行った。
 これについて日本側では、外務省は米国寄りの立場を取り、在日米軍再編は横田基地とキャンプ座間しか対象にならないと考えていたが、防衛庁は何とか沖縄の基地負担の軽減を米軍再編の中に絡めようと奮闘していた。そうして日米の実務担当者が押し問答の議論をしているときに現れたのが、ラムズフェルド国防長官だった。(略)
普天間基地を見学してきたラムズフェルド長官は、「この基地は、旱くどこかへ移転する必要がある」と発言した。(略)
 ローレス次官補代理は(略)勢力拡大が予想される中国をにらんだ戦略態勢を考えたとき、沖縄の米軍基地では中国に近すぎる。そこでグアム基地を戦略基地化するために増強することで、「沖縄―グアム―ハワイ」という重層的な防衛線を強化しようと考え、この流れに普天間基地の移設問題を乗せることとした。(略)
[司令部機能をグアムに移せば]
沖縄の負担軽減という日本に対する政治的な問題もクリアでき、グアム移転経費の大半を日本に負担させることも可能となるかもしれない。これが「ローレス・プラン」の概要であった。

ゼニゲバ守屋

防衛庁はなぜ、デメリットの多いキャンプ・シュワブ陸上部分への移設にこだわったのか。
 防衛事務次官守屋武昌氏は、SACO当時は嘉手納統合案を、米軍再編以降はシュワブ陸上案を主張していた。すなわち、米軍基地は既存の基地内に移転すべし、という考えにこだわっていたようである。なぜか。「おそらくはゼネコンの利権だったと思います」「守屋氏は小泉政権下で、飯島秘書官とくっつくんです。守屋氏は飯島秘書官に、金が早く回るのは陸上案だと言って説得したので、引っ込みがつかなくなったんだろうと思います」と、外務省の担当者は語っている。(略)
 「守屋氏は、海上施設だと波による妨害を受けるから陸上に造るべきだといって、自分の浅瀬案に反対していたが、実際には[親族が辺野古に土地を所有する]議員と利権でつながっていた可能性がある」と言う政府関係者もいる。(略)
[調査団がキャンプ・シュワブを現地視察すると]
実弾演習用の訓練場のど真ん中にヘリポートを造るはめになることが明らかになったのである。それで、
「この守屋次官のシュワブ案というのは一瞬で死んでしまった感じになったので、みんな勝った勝ったと言っていた」[外務省関係者談](略)
[そこで守屋は「半陸半沖」の「シュワブ沿岸案」]
そこまでしてでも「(守屋氏は)降りられなかったわけです。小泉氏は特別な総理だったですから。やっぱり怖かったと思うんです」(外務省関係者)
 今から考えると浅瀬案が最も実現性が高かった、と述べる政府関係者も多い。しかし、防衛庁が全責任を持つというかたちで陸上案そして沿岸案が、しぶとく生き残ることになったのである。まさに守屋次官の執念の賜物であった。

V字型滑走路

 防衛庁内では、悩みぬいた額賀長官にある日、突然降りた「天啓」がV字型滑走路だった、などという噂がまことしやかに語られていた。実際は、防衛施設庁内の(略)少数のチームで、1.民家上空を通らないよう飛行ルートを変更する、2.藻場を傷めない、3.陸上部分を使わない、といった観点から図面を引いたものと考えられている。当初はX字型であったものを、計画変更を最小限にするべく、枝の部分を切ったのだという。
[実際、グアムにはX字型、韓国にはV字型滑走路がある]
 ただし、このV字型滑走路への変更についても、謎は多い。
 「100戸程度の民家のために飛行ルートを気にして滑走路を設計するというやり方があるか。それなら厚木基地横田基地はどうなる」という、ある防衛庁幹部のコメントは、この変更に対する一つの疑念を示すものである。

強硬な守屋

 政府の沖縄対策が強硬なものになった背景には何があったのか。
 ここにも、守屋次官の影を見てとることができる 守屋次官は、沖縄のようなところは力で抑えなければだめだという印象を強く持っていた。(略)
「SACO以降、沖縄ではゆっくりと返還プロセスを進めていたのに、それまでの築かれた人間関係をすべて壊したのが守屋氏だった。守屋氏の考えは、最初から陸上案を提唱し、米軍基地を少なくすることだった。(略)」[防衛省関係者談]

[迷走の原因は2002年7月決定の基本計画を移動させたことだと名護市元幹部。反対派の妨害でボーリング調査が中断]
あれで、この[小泉]政権にはやる気ないな、と我々は思いました」(名護市元幹部)(略)
というのが、地元で代替施設建設を進めようとしてきた人々の率直な印象だった。(略)かなり早い段階で、政府の中では「もう海上埋め立てはやめよう」という方向で決まっていたからではないかと、彼らは考えていた。(略)
 「事前の基本計画は沖合2.2キロだった。今は0.7キロなんです。それだけ民家に寄ってきた案を作っておいて、この案は、騒音を与えない、これがベストだというのが、守屋次官の言い方。それを公然と言うから、ふざけるなと稲嶺知事が怒ったのも当然であり、我々もそういう思いでした。
 民主的にまとめたものを廃案にして、勝手に政府が変更しておきながら、それは沖縄県が協力しなかったからできなかった、こんなことを言ってきたわけだから怒るのは無理もない」(名護市元幹部)
(略)
 こうして反発する沖縄に対して、政府は強硬路線を取ることになる。これも沖縄の目から見ると、防衛庁の権力がごく限られた少教の人々に集中していった結果であると映った。守屋次官と、守屋次官からかなりの権限を委任された門間大吉審議官である。(略)[門間の重用で]これまで沖縄との間にパイプを持っていた防衛庁幹部が皆、交渉から手を引くことになってしまったのだと指摘する人もいる。西正典那覇防衛施設局長らと話をして、ほとんど落としどころに来ていたという沖縄と政府の協議も、そのためにすべて水泡に帰したという見方が一部にあったことは確かである。