伊藤博文が韓国統監となった意図

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

1903年政友会総裁を辞任し

帝室制度調査局総裁に復任

 国家と皇室を分離するという従来の国制原理を改め、国家のなかに皇室を位置づけ直すことを企図した調査局だが、そのことによって天皇の政治的役割が強調され、主権者としての親政が意図されていたわけではない。むしろまったく逆である。そこで志向されていたのは、天皇主権の確立というよりも、皇位や皇室のより一層の制度化であり、国家機関化であったと目される。換言すれば、天皇への国民の滅私ではなく、天皇の国家への奉公こそが眼目だったのである。

公式令制定の裏には、内閣官制を改正し、大宰相主義を復活させるという底意があった。首相のリーダーシップのもとでの内閣中心の責任政治の実現こそが、帝室制度調査局の憲法改革の真の課題であり、シークレット・ミッションだったのである。
 公式令制定の際、調査局が念頭に置いていた対抗勢力があった。それは軍部である。すべての法律命令に首相の副署を課した公式令は、軍による帷幄上奏の慣例に対する挑戦に他ならなかったのである。

 公式令が発表された当初、政府はさして関心を示していない。内相だった原敬はその草案が閣議決定された際、日記に「従来のもの〔公文式〕と大なる差違なし」と素っ気なく記している。閣員すらその真意に気づいていなかった。国制上の劇薬であるがゆえに、それは慎重に秘匿して服用させなければならなかったのである。
(略)
[1907年]斎藤実海相は韓国の鎮海・永興両湾に防備隊を配備するための条例案天皇に奏上した。斎藤は制定されたばかりの公式令の規定に従い、首相と海相の副署を付して勅令としてこれを公布しようとした。だが、旧来の手続きとの違いをいぶかしく思った天皇は、3月23日、そのことを韓国統監として任地にあった伊藤博文に電文で下問したほか、同月26日には韓国に使いを派遣してその見解を質した。
(略)
[ようやく陸軍は公式令制定の真意を悟り]改正に動き出す。そして従来の帷幄上奏権を保障する法令形式として、「軍令」が立案される。
(略)
[9月、一時帰国した伊藤と山県有朋が会談]
山県は、統帥事項と行政の区画を判然とさせるために法令としての軍令を認めせた。伊藤は山県に対して譲歩したのである。

なぜ韓国統監となったか

このように統監には韓国に駐留する軍隊の司令官に対する指揮命令権が認められた。保護国化を受けて反日の気運が高まっていた当時の韓国の状況を勘案すれば、そのこと自体は当然の措置と考えられよう。問題は、そのような統監の地位に文官である伊藤が就こうとしたことだった。(略)
[当然軍部は問題視]
軍は天皇に直属する組織であり、そのような軍が統監の命令に従うというのはいかがなものかとの弁である。時代が下れば、統帥権の干犯として指弾されたであろう問題である。軍の側のこのような声を、伊藤は天皇の権威を持ち出して抑え込んだ。(略)
かくして、明治憲法下で唯一、文官が軍隊の指揮権を持ち得る官職ができたのである。その作成者たる伊藤は自らその地位に就き

山県は従来帷幄上奏してきたものをことごとく軍令とすることは断念し、一定の事項は分割区分して内閣に提出することを認めたのではなかろうか。(略)伊藤からしてみれば、軍令の成立では妥協したものの、その運用については山県から譲歩を引き出すことに成功していたのではないか。そしてその結果、これまで慣行化していた帷幄上奏の権限を抑制し、軍行政に内閣が介入していく足がかりを築いたとの満足は得られたのではないだろうか。(略)
そのための実践の場、それが韓国だった。(略)
それまで日本軍が治安維持のため出していた軍律が緩和されている。これにより、処罰規定項目が減らされたほか、死刑が廃止された。伊藤は、韓国統治の軍政色を一新し、民政化を促進しようとした。それは韓国民衆の懐柔策という側面以上に、法治主義に軍をも従わせてその自立化を抑止しようという本国の憲法改革と連動したものと言えよう。
 軍の司令権を握った伊藤は、軍統制のためのリーダーシップを発揮した。(略)駐留軍の組織構成のみならず、軍内部の指揮伝達の詳細にまで伊藤は目を光らせていた