高田渡の父・豊

高田渡と父・豊の「生活の柄」--増補改訂版--

高田渡と父・豊の「生活の柄」--増補改訂版--

 

一代で財を成した高田渡の祖父はアノ星製薬株を大量購入して大損。さらに干拓事業で失敗。渡は新潟干拓だと思い込んでいたが、実はフォークジャンボリーで御馴染みの中津川だった。
父・豊が学生時代、仏語を個人教授してもらったのがアナキスト石川三四郎関東大震災後石川宅を訪ねると検挙されており、危険を察した豊は郷里へ。再度上京後は佐藤春夫門弟として新鋭詩人の仲間入りするも、破門され挫折。京都で弘文堂入社、一番仲が良かったのが富士正晴。戦時勤務していた「日本海事新聞」の退職金は新円切替でパーになり、空き家になっていた郷里の300坪の屋敷へ。壁紙売り・養鶏・山羊乳業・牛乳販売から芸妓就労斡旋所や保育園まで。妻・信子が57年48歳で癌死、家屋敷を処分して借金返済すると豊は四人の子[驍(たけし)18歳、蕃(しげる)16歳、烈(いさお)12歳、渡4歳]を連れて上京。引っ越す毎に落ちぶれ、かつては町長選にも立候補した男は、上野の浮浪者収容施設に流れつく。そこから深川の父子寮へ。長男は独立しており、次男と二人でニコヨンに。
 渡は中学卒業後タイヤ工就職が決まっていたが、知人の紹介で『赤旗』を印刷していたあかつき印刷の文選工となる。三鷹の都営団地に移って四年目の67年豊は62歳で死去。渡18歳。

父の死

夕刻、夕飯の仕度が出来たので、「お父さん、御飯が出来たよ」と蕃が呼びに行ったところ、すでに豊は死んでいた。(略)
通夜の席で渡は大声で泣き続けた。あまり泣き止まないので、[従兄弟の]中尾直樹が「渡君、少し散歩でもして来いよ」と言うと、渡は泣きながら外へ出て行った。そして団地の前の通りの向かい側にあった町工場の角に立ち尽くし、その夜、遅くまで泣き続けた。渡の号泣は、一棟置いた豊の通夜を営む四階の団地の部屋まで寒風に乗って聞こえてきたという。

父の死後、佐賀の叔母・香の元で薬局店を手伝いながら定時制へ。

圭一郎の話によると「じつは、この『魚つりブルース』の主人公は、鹿島の町にモデルがいたのです」とつぎのように語っている。
 「香おばあちゃんの家の隣の病院の院長先生が釣り好きで、日曜日になると朝早くから、家の前を流れている浜川に釣りに出かけていたんですね。渡さんと僕は、そんな先生の釣り人姿をよく見ていた。けれども先生がお酒の瓶を抱えて釣りをしていたかどうかは覚えていません。そのあたりは渡さんの創作じゃないかな……」。

69年7月、京都の渡を訪ねたシバ。事務所が「五つの赤い風船」のギャラをダンピングしたことに抗議して、渡は事務所を辞め、無職状態。

書店の配送、本屋の店番、漬物屋の店員、車の走行量計測など、何でもやった。たまたま知り合った『広辞苑』の編纂者新村出の孫の紹介で、改訂版作成の資料整理に従事したこともあった。
(略)
これは後の話だけれど、「80年代になり、フォークソングが忘れ去られ、生活に窮していた渡は、“俺、今、築地の魚市場で鮪運びやってるよ。しんどいけど面白いぞ”と言っていたことがありますよ」。ひがしのひとしから、そんな話も聞いた。

  • おまけ

ラビ・トリビア

69年に入って中山容が京都へやって来たことも、高田渡の生活を賑やかにした。中山と片桐ユズルは共に都立高校の英語教師仲間(略)
中山容中山ラビの関係はフォーク歌手仲間たちには有名なのだが、ラビが中山の勤めていた都立高校の教え子だったということはあまり知られていない。中山ラビの話によると、「中山容は、英語の授業にボブ・ディランの『風に吹かれて』の詞を英訳しなさい」といった授業をする先生で、ラビは憧れてしまった。そのため中山容が京都の女子大の先生として赴任すると、高校を卒業したラビもあとを追いかけて京都へ行く。つまり駆け落ちである。[しかも容は妻子持ち]