イラン人は神の国イランをどう考えているか

イラン人15人の声を集めた本。

イラン人は神の国イランをどう考えているか

イラン人は神の国イランをどう考えているか

はじめに

アメリカは何十年にもわたって、イランを激怒させても仕方のない行動をとってきた。その一つが、かの有名な大統領の所信表明演説における「悪の枢軸」発言である。わずか半世紀前、アメリカ人が国王モハンマド・レザー・パフラヴィー政権を断固として支えていたことを、イスラーム共和国は忘れるはずがない。国王の失脚後、アメリカは身の毛のよだつようなイラン・イラク戦争の期間中、サダム・フセインを支援し、対ソヴィエトのアフガン戦争ではスンナ派原理主義者グループに資金援助をし、9月11日以前には、イランの不倶戴天の敵タリバンと取引をしていたのだ。
 そういうわけで、イランのアメリカに対するわだかまりは、奇妙なことにアメリカがイランをどう見てきたかを映す鏡になっている。

 実際のイラン人自身は、イデオロギー化されたイスラームと衛星テレビ、石油による莫大な国家収入と動かしがたい貧富の差が奇想天外に交差する、もっとずっと複雑で矛盾だらけの現実のなかで生きている。かりに地政学的には厄介者、宗教的には硬化症と診断されたとしても、イランは実は25歳以下の人口が半分以上を占める、驚くほど若い国で、アメリカン・ドリームの現実化を含めた、近代的なものの導入に貪欲なほど熱心である。

ゲラーレ・アーサイエシュ

私は自分が白人だと思って育った。ところが、イランからアメリカに移住してみると、そうではないことがわかった。(略)
[イランでの]私の社会的身分は、見た目がどのくらい魅力的か、何を着ているか、どこに住んでいるか、欧米に旅行したことがあるかなど、もっとほかの要素によって位置づけられていた。
 アメリカでは、身分の定め方が違う。ノースカロライナ州の高校時代には、アフリカ系アメリカ人の男の子は付き合ってくれたが、白人からは相手にされなかった。大学では、自分が黒い眉、黒い目、色の黒い生き物であることを思い知らされた。記者になってからの私は、下町では受けがよかった。初めて就職したときの記者室の秘書は、市民権のない少数民族の私を自慢できないと言って嘆いた。(略)
イランが肌の色を気にしない国であるとしたら、それはほとんどだれもが同じ色だからだ。したがって、偏見は否応なしに経済、宗教、民族的血筋など、別の要素によって形成されてきた。これを認めることは、子どものときから自分はアメリカ人やヨーロッパ人と同じだと思い、アラブ人やユダヤ人、パキスタン人やインド人、トルコ人クルド人アフガニスタン人、ごくまれにはアフリカ系アメリカ人をも見下すことが習性になっていた私の人種偏見を丸出しにすることだ。(略)
学校では、アイルランド人を母親にもつ級友はちょっとした貴族階級扱いだった。いとこがイギリスヘ留学すると聞いたりすると、妬ましく思ったものだ。アメリカ人の友だちカロラインがテヘランのわが家にしばらく滞在することになったとき、家族全員が根掘り葉掘り話を聞きたくてうずうずした。(略)
 ペルシア高原への最初の移住者はアーリア族(アーリアン)で、これが「イラン」の語源になっている。イラン人は自分たちを整頓好きなドイツ人、したがって白人と同属だと考えている。西欧では、“アーリアン”という言葉は、ヒトラーや煽動集団を連想させるので、ほとんどほめ言葉にならない。ところがイランでは大違いで、世界に名の通ったカントリークラブヘのだれもがほしがる招待状のようなものである。地球上の支配階級へのこの漠然としたつながりが、イラン人が他の中東諸国の人たち、とりわけ7世紀に活気を失っていたペルシア帝国を滅ぼすという向こう見ずな行為をしたアラブ人を見下す気風をつくっている。

レザー・アスラン宗教学者

テヘランでは、「宗教指導者」とか「坊さん」を意味するペルシア語「アホンド」は侮蔑語だ。いかがわしい、あるいは卑劣な行為をする人に、「そんなアホンドみたいなことをするな!」と非難することもある。革命前は、宗教指導者はスーパーの行列でも、「お先にどうぞ」と言われ、レストランに行けば一番良い席をとってもらえたが、今では、お店に宗教指導者がいても、人々は腹だたしげな言葉をつぶやきながら、つっけんどんにそばを通り抜ける。(略)
イランの憲法には人種、民族、言語、ジェンダーの平等が明記されている。(略)国政すべては「選挙によって表明された国民の意思を基礎として」、つまり、権限を与えられた議会と強力な独立した行政府を樹立して、遂行されるべきであると明記されている(略)
 理論上、「ファギーフ」は国家の「イスラーム教的性格」を確保するローマ法王的な存在であると解釈されていた。だが、革命直後の混乱期に、イランの初代ファギーフであり、このポストを創案したルーホッラー・ホメイニー師の圧倒的なカリスマ性に操られた強力な既成宗教指導者集団によって、この「ファギーフ」の権限を飛躍的に強化するための一連の憲法修正や司法決定がなされたとき、この官職の管轄範囲は劇的に変更されたのである。(略)
 実際、このイスラーム共和国はイスラーム国でもなければ共和国でもない。この国は神教国でもないし民主主義国でもない。イランはそのいずれともまったく異なった状態にある。この国は、第三世界ファシズムと宗教が奇怪に混じり合った“坊さん統治国”で、20世紀のファシズムと同様、ポピュリズムの予想外の進展によって、世界を当惑させる一例になっている。

メーランギーズ・カール

最初のうち、マネキンの衣装が一夜にして変わったことが、イラン女性にヴェールの着用を強要する重要な兆候とは思われていなかった。そこで体制側は、常套手段として、女性の顔や素肌の露出している部分に酢を吹きかけるようになった。
(略)
 1980年、イラン・イラク戦争が勃発した。この戦争は、イスラーム革命に負けず劣らずイラン人女性のアイデンティティを目の敵にした。少年たちが徴兵され、前線に赴く前に遺書を書かされた。彼らが殉教したあと、当局はその遺書を公開するのが常だった――殉教者のほぼ全員が、女性たちにイスラーム風のヴェールをきちんとつけるように命じていた。その命令はスローガンになり、都市部の壁に書き付けられた。「姉妹たちよ、おまえのヴェールは私の血よりももっと効力がある。殉教者より」

ローヤ・ハッカキャン

 1970年代には、「奴隷」、「苦悩」、「愚かな群衆から受ける苦しみ」などという言葉は、私たちの家族のほぼ全員に、ずしりと響きはしなかった。みんなで「来年はイスラエルで」と誓い合い、口では言うが、絵空事であることを知っていた。家族は乳と蜜の地を夢見るが、目が覚めたらテヘランにいたいものだと思っていた。ビジネスは好調だったし、企業家であるおじたちは、遠い昔のことのように思える歴史に束縛されたくなかった。ほぼ半世紀のあいだに、イラン在住の約十万人のユダヤ人は、国会に自分たちの選んだ代表を送っていた。ユダヤ人はとうとう、自分で選んだ住宅地のどこにでも住めるようになり(略)ユダヤ人を指す「不潔」という侮蔑語も、巷ではめったに聞かれなくなっていた。イランは、これまでの長い歴史のなかで、ユダヤ人に対してもっとも好意的になりつつあった。(略)
当時の何が私たちをイランから追い出したのだろうか?1979年の革命前夜に、私たちの戸口の向かいの壁に見えた、ナチスドイツの鍵十字のせいだったかのか?(略)
1984年にも、同じように、学校のトイレの使用を、宗教によって別々にせよという政令が出された。ある朝、私たちのクラスが校庭で分列行進をしていると、トイレの上に「ムスリム専用」という標示を取り付けている男たちが目に入った。最後の二区画には、「非ムスリム専用」という標示が付けられた。壁の鍵十字しるしのときと同じく、その標示ははじめ私たちを不安にしたが、それもまた、忌むべき標示以上のものにはならなかった。私たちティーンエイジの女の子には、そんな標示に黙って従うのは“ださい”ことだという暗黙の了解があった。みんなそんな標示を無視した。(略)
私たちがイランを出たのは、新体制――戦争と原理主義体制下の生活が、しだいに耐えがたいものになりつつあったからだ。キリスト教徒であろうとユダヤ人であろうと、だれだって国外脱出をせざるをえなかったであろう。(略)
 そういうわけで、中東全域で、イスラエル以外に、今なおもっとも大きなユダヤ人コミュニティーがあるのはイランである。ユダヤ人はイスラーム教徒が存在するはるか前にイランにきていたのである。21世紀初頭になっても、約二万人のユダヤ人がこの国に住みつづけている。