サキソフォン物語

冒頭のサックス開発者伝が一番面白く、他はいささか散漫な……気もしないでもない。

サキソフォン物語 悪魔の角笛からジャズの花形へ

サキソフォン物語 悪魔の角笛からジャズの花形へ

1814年の生まれで、アントワーヌ・ジョゼフと名づけられ(略)父親のシャルル・ジョゼフ・サックスは(略)ベルギー随一の楽器職人(略)
十五歳のときには象牙クラリネット一本とフルート二本をつくり、1830年ブリュッセル産業博覧会でもっとも完成された作品との評価を得た。二十歳になるまでにはソプラノ・クラリネットの新たなキーの配列を考え、バス・クラリネットを再生、復活させている。(略)
[1842年28歳でパリヘ]
アドルフ・サックスは口も態度も横柄だが端正な顔立ちで、ひげが濃くて女性がうっとりする目をし、19世紀の熱烈な空想家を絵に描いたかのようだった。恐ろしく自信にあふれ、「人生は征服するかされるか、勝つか負けるか。わたしは征服する側でいたい」というのが口ぐせだ。(略)
エクトル・ベルリオーズは担当するコラムの大半を「ことばにできないほど明晰で先見性があり、ねばり強く自分を貫く練達の士」サックスのために割いた。そこでは新しい楽器がル・サキソフォンと呼ばれ(略)
「それは泣く、嘆く、夢見る。その音は力強くクレッシェンドし、また、残響のエコーのエコーになるまで耳に残る。たそがれと溶けあうまで」(略)「サキソフォンの高域の音には苦しみや悲しみの響きがある。低い音は逆に荘厳なもので、ミサを思わせるといっていい。サキソフォンは今日知られているどんな低音楽器よりも美しく聞こえる」

1846年に八本の楽器群の特許が取れ、特にEフラットのバリトンサキソフォンは数年で五大陸を制覇。同業者は連合して「新楽器は既存の特許の寄せ集め」だとして、サックスを訴えた。

楽器製造業連合は豊富な資金力にものをいわせて法廷闘争をつづけた。(略)サックスの図面や特殊な道具は盗まれ、楽器は偽造され、従業員は買収されて重要な作業工程で手抜きをした。その工房は不審火で焼けた。敵陣営はもっと荒っぽい手段にも訴えた。サックスの寝台の下に爆発物がしかけられ(略)[二度目は]従業員が雇い主と同じ背格好をしていたため、胸を剌されて致命傷を負った。
(略)
[様々な妨害等で]資金も底をついて1852年と73年に破産宣告の憂き目をみた。1877年の三度目のときは傾いた工場を息子たちに譲って、五百近くあつめた珍しい楽器を手放し、自分で工夫した道具類も売りはらった。そのころには特許の独占権もとっくに切れて、ほかの楽器業者がいくつかサキソフォンの製作にはいっている。

 フランス軍が行く先々の駐屯地に音楽隊を帯同していたおかげで、サキソフォン1860年代はじめのフランス干渉戦争時にはメキシコに持ちこまれ、すぐさま新天地に広まった。実際、ニューオーリンズに住みついた最初のサキソフォン奏者はメキシコ人のフロレンシオ・ラモスだとされる。(略)メキシコから流れこんだ演奏家の多くはこの町でジャズの第一世代となり、生まれかけている混交音楽に国境の南の強い影響を与えた。

[困窮し年金給付を世論に訴える]
「わたしが世に出る前、これは誇りをもっていえるのだが、フランスに楽器産業はなかった。少なくとも、なきに等しかった。それをわたしが興した。比類のないものにした。わたしはおおぜいの労働者と演奏家に仕事の場を与えた。とりわけその恩恵を受けたのはわたしの楽器の偽造者たちだ」と自賛した。

明王

世論に訴えたあと、ささやかな老齢年金の給付を受けて口すぎをし、パリ・オペラハウスで舞台監督をつとめながら、1894年、その死の年には35の特許を認められている。実用的な工夫もあったし、雲をつかむような夢の大発明もあった。混乱する頭で考えに考えたらしいものもあった。サックスはたとえば音を変えたり補正したりする器具を考案した。もともと放物線には強い関心があって、放物線を描いたサキソフォンの管体はサックスの特許申請をとおしてもっとも特徴的な形状だが、それを生かした音楽堂の申請理由は客席のすみずみまで理想の音を楽しめるというものだった。サックスはまた「蒸気機関車の汽笛の音を改善する」仕組みを考えた。グドロニエ・サックスという発明は室内の空気を殺菌目的のグドロン、つまりタール臭でみたす装置であり、医学者のルイ・パストゥールも何台か注文している。
(略)
バスティーユ監獄の広場にある青銅の柱と同じ大きさの楽器をつくってやるとサックスはいい、「サックスの雷鳴」と命名した。さらには巨大オルガンの設計も考えた。丘を背に建設して蒸気機関車のエンジンで動かし、パリの全市民のためにマイアベーアの作品を演奏する計画だ。『レヴュ・ガゼット・ミュジカル・ド・パリ』誌によると、この楽器は「四、五気圧の送風を受けて、振動板が作動する。振動板は巨大な鋼板でつくられ、高圧の空気でぶんぶん鳴る」。友人のベルリオーズは当時のロマン派らしい誇大な表現を駆使して、巨大オルガンは「いちばん高い塔のてっぺんから首都の喜びと悲しみを歌い、その響きに全市民を包みこむ」と断言した。
 サックスは何もかも破滅させたい精神状態のとき、巨大な砲を思いついた。大きさは10メートル、重さは550トンで、ひとつの都市を壊滅させる能力があった。信奉者のひとりは「破壊をほしいままにし、防壁をすべて粉砕し、要塞をがれきの山にし、鉱山を押しつぶし、発電所を吹きとばすだろう。砲弾の爆発がひとびとを恐怖の淵に落とすのは当然のこととして、だれにも止められない荒廃を広範にもたらすといっていい」とうけあっている。
 奇矯な発明家、アドルフ・サックスは「サックス砲」と名づけた巨大な破壊兵器を思い浮かべながら、生涯の敵だった楽器製造業連合に心の目で狙いを定めていたのかもしれない。

オーネット・コールマン

デューイ・レッドマン談】
[高校の一年後輩、タクシーの運転手をしながら夜バンドをやっていた頃、空港で再会]
「「オーネットはいった。『デューイ、まだ吹いているかい。だったらきて、いっしょにやらないか』」(略)「つぎに覚えているのはニューヨークに出ていて、オーネットの『ニューヨーク・イズ・ナウ』を録音したことだ。エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソンとね」
(略)
オーネットはしじゅう、前の世代の演奏家から仲間外れにされた、とデューイはいう。自分たちと同じやりかたでも吹けることが分かるまで、オーネットの試みは能力不足をごまかすための方便だと思っていたからだ。(略)
[1971年欧州ツアー]「錚々たる顔ぶれだ。デューク・エリントンの楽団、ソニー・スティットデクスター・ゴードンマイルス・デイヴィスとね。オーネットとわたしの控え室はソニーの隣だった。ある晩、笑ったり、しゃべったり、飲んだりで隣があまりにうるさかったから、わたしはひとこと、いいにいった。デクスターがソニーに何か見せていて、みんなで盛りあがっていた。すると、いきなり通路のどこかで、チャーリー・パーカーの吹く音がきこえた。なんと、バードだよ。とたんに、みんな静かになった。だれが吹いているのか、わたしにはすぐに分かった。オーネットだ。といって、オーネットのパーカーというんじゃない。まさしくチャーリー・パーカーだった。わたしの知るだれよりも、オーネットはチャーリー・パーカーに近い演奏ができる。しかも同じアルトだ。みんな口をあんぐり開け、あたりは静まりかえった。シーツにネズミが小便をする音だって、きこえたろうな。ほんと。何分もそのままだった。バードだものね。吹きだしそうになるのを必死にこらえて、わたしは控え室に戻った。オーネットは吹くのをやめ、にやりとした。二分たって、デクスターが部屋にきた。ひとことも、オーネットには悪態をつかなかったよ。『調子はどうだ、オーネット』(バードの後継者をもって任ずる)ソニー・スティットもきた。『やあ、いいサウンドだな』それまでは相手にもされていなかった」

リー・コニッツ

「わたしの発想は地味でね、いろいろ考えながら、違うサウンドを見つけつづけることだ。のどの開きを広げて、両唇を噛むダブルリップにしてみたり
(略)
「毎日毎日、新しくはじまる感じがする。楽器を手にして、単純な音を出し、前の日のことで覚えているものを全部やり直し、もっと上へと進めてみる。やらないのは、前の日につかんだ音をつかまえようとすることだ。(略)
晩年のズート・シムズを見たとき、若いころと同じヒプスターみたいに吹こうとしていた。正しいことかって、わたしは思った。人生の終わりを迎えた男みたいに吹かなくてはって。自分の音楽とひとつになりたいなら、自分の現実と向きあって、いまやれる最高の演奏をし、充足をはかることだろう。若手と張りあってスウィングしたり、熱くなったり、速く吹いたりするのではなく、たとえ最低の力しか出なくても、いいメロディを吹くよりも意味があることはあるかね」(略)
 「ステージにあがったとき、わたしには吹こうとする最初の音は何かなんて分からない」とリーはいう。「あるのは強い思いだ。これまでの年月、ずっと実現しようとしてきたものだよ。ものすごくうまくいっていると、いい音が自然に生まれ、音が音を生む感じになる。わたしはただそこに立って、それを楽しめばいい。一度もきいたことがないという感じだ。意識下のものが出るんだね。いつも願っている状態だ。派手でなくていい。ずっと低い演奏のレヴェルで吹いていても満足感はある。そのときの自分にやれることを全部知ったうえでね。何よりもだいじなことだよ。どんなレヴェルでも楽しめる自分が好きだというのは」