鶴見俊輔びおけい

収録されている鶴見俊輔のコメントがビミョーに「僕は人間に生まれ、いろいろの生き方をしたが」状態なのである。とりあえず本編である後藤新平1919年の文章を先に。

新たな差別観

 日本人の生活を一言でいえば、「隣人のない生活」である。日本は家族制度の国である。家族制度は、差別観で貫かれている。(略)われわれはこの差別観を排斥するのではない。人間の世界がいかなる時代にも哲人・偉人を必要とするならば、差別観は人間とともに常に存在するのである。(略)差別観をもってずっと生活してきた日本の生活には上下の関係はあるが隣人という平等の関係がないのである。(略)
われわれが自治生活の新精神を強調するのは、差別観を排斥するのではなく、平等観を基調としてさらに新たな差別観に向かおうとするからである。社会的生活を基調としてさらに新たな「国家的生活」に向かおうとするからである。
(略)
産業もまた言うまでもなく自治でなければならない。繁昌すれば有頂天になり、少しばかり逆境に陥ればたちまち行政に救済を叫ぶなどというのは、自治とはほど遠い。隣人とともに生活するとなれば、隣人との相互扶助がなくてはならない。相互扶助があれば、相互制裁もなければならない。

イマジンw

 特にわたしが、最も多くを期待しているのは、各種階級、各種生活団体の人々が、一日の仕事を終えた夕方より、この会館に集まって、放論談笑の間に、各自の生活、各自の気分を、相互に理解し合うことである。(略)
 このようにして、自治会館というものは、人類ならびに各種自治体相互の同情と理解との鎔炉となるであろう。人はあるいは、わたしのこの考えを空想と思うかも知れない。しかしながら、諸君、現代の物質生活は、今や行き詰まりの極点に達し、このままで推移するならは、もはや壊頽か爆発のほかはない。悧巧ぶった人間の知力が、現代文明を維持するに足らなかったことは、欧州大戦の勃発によって証拠立てられた。そうであればこの上は、悧巧顔をする人間が空想とする、その空想の力を頼むよりほかにないではないか。

政党の横暴

今日でも、地方によっては、有力政党に加入しないからとの理由で、架けられるべき橋も架けられず、作られるべき道も作られず、暗涙にむせんで政党の横暴に屈している町村を見かける。このようなことは実に言語に絶した悪政党の悪影響であって、せっかく施かれた自治の制度は全くその精神を蹂躙されたわけである。
 自治団は、このような横暴に対しては厳重な監視を遂げ、不偏不党の立脚地から、かりそめにもこのような弊害を少しも見逃す所があってはならない。

で、肝心の鶴見俊輔のコメント。全体に文章のつながりがおかしいのだが、特に次の箇所は祖父の偉功をたたえるシリーズに塩川正十郎だのと並んで寄せるコメントとしては異様。

 私の母は、生まれたときから私をぶったりたたいたりで、今日だったら警察が介入すると思われるほどだった。そのため私はマゾヒストとして成長し、私の思想流派はなによりもまずマゾヒズムである。それは、私の母が自分の父から受けた期待に沿って成長したからだと思う。

1968年の「私の母」という追悼文と比べると、やはりBOKEているのではという気が。

母はくつろくことのできない人で、そばにいるだけで、こどもの気持もぴりぴりして来た。
何となくのどかな気分で、母と一緒に、空の雲をながめている、というふうな記憶がない。いつ雷がおちるか、と思って、そのおちてくる雷にたいして用意している、というふうだった。一度、いなずまがおこったら、あとは落雷また落雷で、こちらが最終的な自己批判をするまでやむことがないからだ。
(略)
 どんな偉そうに見える人でも一皮むけばみんな偽善者だという思想に、私は、どんな時にもくみすることができない。それは、どういう角度から接しても偽善者でなかった母の姿をそばで見ていて、その偽善者でないことに閉口して育ったためだ。
 女は駄目だというもう一つの普通にきく考え方にも、私はくみすることができない。それは、私が、うまれおちた時からおそろしい女に接して来たからだ。
 他の人にとってもそうかもしれないが、私にとっては、人間の問題というのは、母親の問題だった。母とのつきあいに悩んだので、人生に絶望したと言っていい。しかし、どんなに悩んでいた時でも、母が自分を愛していることに確信をもっていた。自分は、一生分の愛情をうけたと思っている。

2002年の「わたしの100冊」では

 私は不良少年でした。それは母親への反発だったんですね。母はとても自罰的な人でした。自分が世間で持てはやされているのは、後藤新平の娘ということでしかないと思っていた。その自己嫌悪を、0歳の私の口の中に、愛情だといってむりやり注ぎ込んだのです。そんなふうにして私を育てた。「あなたがちやほやされるのも、おじいさまが後藤新平で、お父さまが鶴見祐輔だからですよ」と。おふくろにとって愛情とは、私をひっぱたいたり庭の木に縛りつけたりすることだった。愛というものは苦しい。愛されるのはごめんだ。子どもの私は思いました。十五歳までは地獄の暮らしでした。
 私が本を読むようになったのは、おふくろと目を合わせたくないからです。

祖父について孫として語れば母の話も出て定番のネタとなったとしても、やはり最初の文章はちょっと異様。

鶴見俊輔書評集成3 1988-2007

鶴見俊輔書評集成3 1988-2007

上記本でも一番最後の2007年の川上弘美『パレード』解説だけがおかしい。この頃からなのか。

 いま仮に、私を哲学者と呼ぶとすれば、私の母は、見えてくる。情けないような姿をして、昔の(私を育てたころの)たけだけしさをなくして、今も私についてくる。この人をつれて、クワインに会ったとしたらどうだったろう?
 「意味というものを一冊の字引きからたぐりよせるのはあぶないことなんです。あなたは(と私の母に向かって)、ひとつの字引きで、おさない息子をなぐりました」
 母は、言い返さない。
 チョムスキーに会いにいったとしたらどうだろう。
「誰でも、はじめは底にある星雲のようなふわふわしたところから考えは出てくるのです。あなた(私の母に向かって)が言うように、善と悪とにきっちり分かれている形で、もとからあるのでもない。あなたは、そのように決めつけて、こどもを育てたのですが」
 これにも、私の母は、情けないような表情で、黙って対している。しかし、決して、自分がまちがっていたとは言わない。
 それでも、小さい母の亡霊は、どこまでも私についてくる。