無限文学

肝心の中身は読まずに、数学の本に書かれている文章の方が、文学的高揚を目指して書かれているはずの「文学」より文学的なのだろうかと考えていたのでした。

「第5公準」は、

2直線が交わる条件を述べているのであって、交わらない条件を述べたものではないことは注目してよいことです。(略)
 2直線が交わるかどうかは、図形の性質として確かめられることを示しています。しかしどこまでいっても交わることのない平行線というのは概念であって、それは実際紙の上に2本の線を引いて確かめられる性質のものではありません。平行線の存在の確認は無限概念のなかに含まれています。(略)
[「第5公準」を]背理法で述べてみても、同値な命題となります。そうすると
「2直線が交わらないときには,錯角は等しい」
すなわち「平行線は錯角が等しい」ということが要請されていることになります。(略)
第5公準では、作図によって確かめられる図形の1つの性質を公準として明確に位置づけています。次にそこからの論理的な帰結として、いわばイデアの世界へ移って平行線の性質を導いているのです。そうすることで、平行線のなかにある無限概念が幾何学のなかに入ることを防いだことになったのです。

ニュートンオイラー

ニュートンは、

絶対時間の流れのなかに生ずる変化の相を凝視し、ライプニッツは、存在のなかにひそむ無限のつながりに解析の目を向けたのです。微分積分は、二人の天才のまったく異なる視点から生まれ、数学という学問のなかに総合されていったのです。

オイラー

このとき、数学が有限から無限への彼岸を渡りきるならば、そこには今までに見たこともないような新しい景色に出会うことになることを示したのです。

『無限解析』は

開いた無限の方向を示していましたが、微分積分は、無限小という暗い、見えない闇の世界に誘われるように進んでいきました。(略)
オイラーの無限は、算術の先に広がってそこでは数は躍動をはじめていましたが、一方微分積分の構成のなかに現われた無限は、なお量の束縛のなかにあってそこから生まれた“無限小量”は数学のなかに暗い不安の影を落としていったのです。量を断ちきって構成されてきた数学の演算体系にとって、無限小量は異端の闖入者だったのです。

微分

1つの関数が表現する世界を、高階導関数を通して、奥へ奥へ、まるで暗い洞窟のなかを押し進むようにして分け入っていきました。