吉本隆明のDNAゼロ

人選からもわかるように吉本隆明になんの愛情もないアサヒ編集者。吉本に興味はなかったけどインタビューすることになって勉強した編集者の感想が「ベルイマンの映画のように静かにかつ破壊的に迫ってきて、シューベルトの幻想ソナタのように読むものを深く沈潜させる詩の世界……」w。せっかく吉本本を読んだから、それをネタにアエラ的人選でインタビューして軽く一冊、興味があるのはインタビュー相手、吉本はさしみのつまで愛情ゼロ。弱小出版ならともかく金満アサヒが「吉本」の名前で荒稼ぎ、せめて香典代わりにいくらか上納シロ。モギあたりを源一郎に代えるだけでも大分印象は変わるのだが。

吉本隆明のDNA

吉本隆明のDNA

糸井重里、『「反核」異論』

とりあえずこの中では愛情ありそうな糸井重里から。

[対談打ち合わせで『「反核」異論』で叩かれていた吉本は、糸井が巻き込まれることを心配して]
「今はお天気があんまりよくないんで、もうちょっと、晴れてからのほうがいいですよねえ」と。(略)
「総攻撃している人たちを、僕は失敬だなと思ってたから、(吉本と対談して周囲からたたかれることを)『いいですよ』と言うつもりだった。(略)
 「いま吉本隆明と対談するなんてことは大したことじゃない、公の場に『「反核」異論』の吉本とおんなじ席に座って、『そうですね』なんて言うのは、若いあんたにとって、ちっともいいことなんかない。対談なんかしなくても、いつでも遊びにいらっしゃい、僕も聞きたいことあるし。晴れてから、会いましょう、晴れてからやりましょうってね、言ったんですよ」(略)
 対談は結局、実現しなかった。しかし、この一件以降、糸井は東京・本駒込にある吉本邸を年五、六回は訪ねるようになる。二人きりで、あるいは、吉本の妻や二人の娘たち、漫画家の長女と作家の次女がまだ若いころから、一緒に食卓を囲んだ。ビールを飲み、鍋をつつく。桜の季節には、花見にも出かける。ほとんどの時間を、お互い、仕事とはまったく関係なく、ただ語り合う

吉本を、「著作より人柄」と言い切ることに、糸井は、ためらいはないのだろうか。
 「うん、やっぱり現物あっての本、でしょうね。坊さんもそこでしょ。坊さんが書いたものより、あのとき、ああいってくれた、っていうの。いっぱいありますよ」

 「吉本さんが、いちばん好きじゃないのは、当事者じゃないけど騒いで、当事者の代わりに『いーけないんだ、いけないんだ』と騒ぐだけ騒ぐ人たちですよね。いつでも怒ってました。『「反核」異論』もそう、オウムもそう、9・11もそう。当事者に言われたら、いつでも『申し訳ない』って言う。それを言ってることの意味もわかってる。だけど、そうじゃない人にいくら言われても、あたしは知りませんと。世論の総攻撃にみえるものに何度もさらされてきてますけど、吉本さんはいつでもおんなじですよね」

 糸井は「吉本さん自身、書いたことは、あくまで『仕事』だと思っていると思いますね」と言う。
 「ここは非常に誤解されやすい話なんですけど、吉本さんは、すごく重要なことを書いたかもしれない。でも、それは書きたくて書いたり、思いついちゃったから書いたり、原稿料もらえるから書いたり、『書く』っていう仕事の中から生まれた、すごいものだと思うんですよ」

 「吉本さんは、本当に自分の家族、だいっすきですから。でも、家族は吉本さんほど吉本さんのこと好きじゃないんじゃないかな。片思いが似合う男ですよね(笑)。ほんとに、好きだと思いますよ。特に奥さんのことは」

かつて柄谷と一緒に吉本はアルツとバカにしてた中沢、オレの親鸞本なしで書けたのかよと吉本激怒、なんて時代を経て、オウム騒動で急接近という印象だったけど、そうでもないのか。

 中沢によれば、「ゲーム」は、あるルールのもとに人を選別し、閉じた快適な環境のなかで行われるのが常だ。アクロバティックなまでに抽象的な思考を巧みに操る人たちが集まっていて、腕を競い合う。彼らはそこで、自分たちが現実にふれていると勘違いしている。自分たちは現実に関与しているし、変えようとしているし、変えることができると思っている。
 「でも、それは現実ではない。吉本隆明が『共同幻想論』のなかで問題にしていたのは、まさにその繋ぎ目の場所で、思考をどうやって鍛えるかという問題なのに、この人たちは繋ぎ目の場所でないところに思考を移して、ゲームの場所に作り替えちゃった。だから僕は『吉本教』には入らなかったし、吉本隆明をそういう観念的に評価している人の前では、すごくシニカルだったと思う」

親鸞

若いころから大いに啓発されたと語るのが、吉本の親鸞論である。三十歳になる直前、中沢がネパールから帰国してまもなく、未来をあれこれと、時にぐずぐずと思い描いていたさなかだった。
 ネパール行きは、ある意味「逃走だった」と振り返る。(略)「思想的な自殺状態に陥り始めていたけど、自殺するくらいなら」と思って、76年に日本を飛び出した。(略)
「宗教の内部に踏みとどまって、宗教を内側から解体しつくすための手法」に、ある程度、たどりつけた、との確信がもてるようになった三年後に帰国。しばらくして、吉本の『最後の親鸞』に出会ったのである。
(略)
宗教的思考というものが「ちょっとやそっとのことで壊れない」ことを承知しながら、それを解体に導いていくにはどうしたらいいのか?核心に踏み込んだ思考の所作は、宗教の海でもがいていた若き日の中沢にとって、「すさまじい」ものに映ったという。

中沢はチベットから帰ってきてまもない時期、1982年頃に一度、吉本と顔をあわせている。ある編集者に、「きっと関心が合うはずだ」と誘われ、吉本の家を訪ねた。ところが――。
 「吉本さん、反発するわけですよ。僕のことを、修行を通して突破口を開こうとしている人なんだろうと言って。思想はそういうことで突破するものではなくて、思想と身体的な体験は別個に考えなくちゃいけない、と。そのときは、共感を抱いているようでいて、かなり吉本さんは僕に否定的だったんですよね」
 「僕としてはさ、吉本さんが在野の評論家として、アカデミズムの枠を取っ払って書いてきたことは、まさにチベット人のところで勉強してたこと、その通りなんだと。だけど言えないじゃないですか、うまく。吉本さんも『修行のときはどんな光が見えるんですか』とか、僕のこと、患者のように見ているわけですね。『どういう心持ちで?』なんてね。カウンセリングというか、実験材料として。だから、そのときは、あまり、仲良くならなかったですね」

『アフリカ的段階について』

 「あれは概念による詩です。人類の問題を考えるのに、詩的状態にある概念を根幹にすえるということで、アフリカ的段階はもう、詩的な概念ですから。ぜんぜん不思議じゃない。(略)
 「社会学でも哲学でも何でもいいんですが、学問の枠組みのなかで概念を展開していこうとすると、もともともっていた全体性は消えてしまうんですよ。でも、思想的な核心部をつくっている概念の多くは、詩的な状態を生きながらえることによって、あらゆる学のなかに展開していっても、縦横無尽に展開できる。

  • チーズ子

ノンキな編集者がノンキなチーズ子にインタビュー。

[『マス・イメージ論』について]
時流におもねるって言うのよ(略)思想家のあんたにオーソライズなんかされなくたって、時代は勝手に動いていくよ、と思った。私たちは平気で生きてるよ、って感じ。(略)やっぱり在野の思想家という人たちは、食わなきゃいけない、ジャーナリズムの中で生き延びていかなきゃいけない、大変なんだろうなと思って。それが私の感想だった

とかトンマなこと言ってるチーズ子、てめえがフェミで食い詰めて福祉業界に進出したことについては

「私がサバイバルしてるのはなぜかといったらね、結果論だけど、フィールドを変えているから。私は福祉の業界では、新参者なの。フィールドを変えたら、どんなプロも素人、初心者になる。で、初心者は、こいつは何を言い出すんだろうという目で見てもらえる」

ですって、ノンキでいいよな。レイコの孤独死、百倍増でチーズ子に、ドン!。