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藝大は1902年からの卒業制作自画像を全て買い上げて保管、その数4800点超。上記写真右の髭男爵は1910年卒業、四年後に死去。同期に藤田嗣治、池部鈞、岡本一平。
- 作者: 河邑厚徳
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2007/08
- メディア: 単行本
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この画には「不倫の末に平民となり再婚した白蓮が、なにをいまさら高貴な衣装を身に着けているのだ」という多くの人々の反感を呼ぶ要素があった
伊東は日本を離れましたが、絵筆を捨てたわけではありませんでした。生涯を通して絵には情熱を注いでいたのです。しかし、晩年のモチーフとなったのは意外なものでした。顕微鏡で見た生物の細胞を描き続けたのです。あまりキャンバスに描くことはなく、ひっそりと新聞の広告の裏に絵を描き続けました。
浜田知明は1939年卒業。大卒なので下士官の資格は取れたが初年兵として戦地へ。聖戦だと思っていたが現実は違っていた。軍隊内ではいじめと阿諛追従、外では暴行略奪。
浜田の唯一の慰めは便所で独りになること、それとこの集団から逃げることを想像することでした。脱走兵はすぐつかまって処刑されてしまうので、浜田は真剣に自殺を考えます。どうやったら死ねるのかを考え続けました。便所で首を吊ったり、銃口を銜え足の指で引き金を引いて自殺した兵のうわさが絶えませんでした。しかし、浜田は自殺を思いとどまります。それは「俺は絵描きだ」という誇りです。戦争が終わったらこの現実を作品で伝えたいという気力が浜田を支えていたのです。しかし、浜田のこの主題には発酵する時間がかかりました。戦後五年目にしてようやく『初年兵哀歌』のシリーズが生まれました。
強盗、強姦、放火、殺人……その結果として、ミケランジェロの彫刻のように素晴らしいポーズで死んでいった男たち。衣をはぎとられ、恥部を天にさらけ出して転がされた女たち……。(中略)軍隊を離れたら、これらの光景を、みじめな初年兵の涙を描くのだと思い続けた、私の兵士生活だった。(略)
軍隊という組織に人れば、いくらでも残酷な行動ができる人間とその社会を描いておかなければ、私の人生は始まらない、と思ったのだった」(吉田浩『浜田知明聞書――人と時代を見つめて』西日本新聞社、1996年)
- 最初の二枚
黒田の御眼鏡にかなった二枚が保存された
1989年卒洋画科第二回生
右・北蓮蔵/左・白瀧幾之助
当時は洋画家が職業としては、まだ確立していない時代です。学校を卒業しても、学生は一人ひとりが自分の仕事を見つける必要がありました。この時代の議員や財界人、大学教授などは、地位の象徴として重厚な肖像画を残したいと考えていました。北の自画像は、仕立てのよい洋服を着て、威厳のある髭をたくわえ、光を演出すれば、平板な日本人の顔でも彫りの深い立派な顔になるという、肖像画見本のように見えます。北は、画家が安定した収入を得られる肖像画というジャンルを開拓した一人です。
北は、日本郵船の初代・森岡昌純から第九代の市原章則まで、歴代社長の肖像画を描き続けました。
白瀧の自画像の特徴は、世間一般に画家像を提供した点にあります。当時は、多くの人が「いったい絵描きとはどんな人種なのか」と好奇心を持っていた時代でした。(略)
二十五歳の白瀧はベレー帽をかぶり、まっすぐに鏡を見つめていますが、その視線は自己ではなく、この自画像の絵を見る相手に向けられているようです。西欧の画家の伝統を意識し、画家の正装を忠実にまとった日本人。最初の自画像は、画家なるものへの強い自意識を感じさせるものです。
- 余談
一番美人だったのは岸田衿子(今日子姉&谷川俊太郎元妻)・1952年卒。
村上(まさかこのおいどん貧乏フェイスが20年後に「蛭ズdeビ豚」になるとは)隆・1986年卒
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