春樹が血肉とした小説を春樹が翻訳するのだから当然ではあるが、ココの空気感というかイメージが血肉となってアレになったのかなあと妄想させる箇所が色々ある。当然、血肉だから、文章上は無関係なのだけど。例えばアムサーからの迎えの車や邸宅のあたりに流れる空気感とか「羊」の「先生」のくだりにつながってる気がする。
- 作者: レイモンド・チャンドラー,村上春樹
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/04/15
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 28回
- この商品を含むブログ (65件) を見る
そのインディアンは実に臭かった。ブザーが鳴って、誰が来たのだろうと思って、小さな待合室に通じる仕切りのドアを開けたときから、すでにそのにおいを嗅ぎ取ることができた。彼は廊下から入ったばかりのところに、彫像みたいなかっこうで直立していた。腰から上が巨漢で、胸が分厚かった。なりは浮浪者みたいだった。
彼は茶色のスーツを着ていたが、上着は彼の肩幅に対して小さすぎたし、ズボンは胴回りがいくぶんきつそうに見えた。帽子は少なくともサイズふたつぶん小さかったし、彼よりは正しいサイズの頭を持ち合わせていた誰かによって、汗のしみを景気よくつけられていた。彼はその帽子を、まるで家の屋根に風向計をとりつけたみたいに、頭にちょこんと載せていた。
警察で刑事とやり取りしている合間に観察している小さな虫、ラストでも「ところで私のピンク色の虫は無事ここに戻り着けただろうか?」とマーロウが口にするのだが、ここら辺も血肉となって「蛍」になったような気がする。あくまで、気のせい。
ピンクの頭部とピンクの斑点をつけた艶のある黒い虫が、ランドールのデスクのきれいに磨かれた表面をそろそろと這っていた。そして飛び立つための風を探すように、一対の触覚をあちこちに波打たせていた。(略)
虫はランドールのデスクの端っこに達し、そのまま進んですとんと下に落っこちた。背中から床に落ち、数本のくたびれた細い足を弱々しく空中で振っていたが、そのうちに死んだふりをした。しかし誰もそんなものにはかまわなかった。だから虫は再び足を振り始め、今度はうまくひっくり返ることができた。それから部屋の隅に向けてもそもそと進んでいった。行き場のないただのどん詰まりなのに。
「見ろよ」と私は言った。「この部屋は地上十八階にある。そしてこの小さな虫は友だちがほしくてわざわざここまで上がってきたんだ。友だちというのはこの私だよ。こいつは私の幸運のお守りだ」、私はハンカチの柔らかい部分でその虫を包み、ポケットに入れた。ランドールはわけがわからないという顔をしていた。
(略)
市庁舎のフロント・ポーチに出た。何段か階段を降りると、花壇がある。私はピンク色の虫を草の茂みの向こうにそっと放してやった。
あの虫がもう一度殺人課の部屋に行き着くまでに、いったいどれくらい時間がかかるのだろうと、うちに向かうタクシーの中で私は考えた。
春樹な光景・その1
彼女はうちまで送ってくれた。その身体は怒りに満ち、唇は一文字に閉じられていた。運転ときたらそれはすさまじいものだった。アパートメント・ハウスの前で私が降りると、彼女は冷え冷えとした声でおやすみなさいと言って、そのまま小さな車で通りの真ん中にぐいと飛び出していった。ポケットから鍵を取り出したときには、もうその姿は見えなくなっていた。(略)
私が戻ってきたのは眠りこけた世界だった。眠りこけた猫同様、無害な世界だ。
部屋の鍵を開け、中に入って匂いをかいだ。戸口に立ち、ドアにもたれ、明かりをつける前に少し時間を置いた。いつもの匂いだ。埃と煙草の匂い。それは男たちの送る暮らしの匂いであり、男たちが生き続ける世界の匂いだ。
服を脱ぎ、ベッドに入った。悪夢を見て、汗をかいて目を覚ました。それでも朝が訪れたとき、私は回復し、もとどおり元気になっていた。
春樹な光景・その2
それは以前本で読んだことのある井戸を私に思い出させた。古い城にある、九百年くらい昔に掘られた井戸だ。そこに小石を放り込み、音が聞こえるのを待つ。どれだけ待っても音は聞こえない。待つのをあきらめ、笑いながら立ち去ろうというときになって、ぽちゃんという短い音が井戸の底から微かに耳に届く。その音はあまりにも小さく、あまりにも遠い。そこまで深い井戸が実際にあるなんて、とても信じられない。
彼の目はそれくらい深かった。またそこには表情というものがなかった。そして魂を欠いていた。