どこで合流すべきか

となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

いにしえの交通騒音・渋滞・事故

古代ローマでは、軽二輪馬車による渋滞が激化するにつれ、(略)シーザーが、日中の荷車や軽二輪馬車の通行を禁止した。例外は、「神殿を初めとする公共施設建設用の建材、あるいは建築廃材の撤去のための運搬」だけだった。軽二輪馬車は、午後三時を過ぎなければ、街には入れなかった。(略)ローマの一般市民が日中楽に歩き回れるようにしたことで、シーザーは彼らの安眠を妨げることになったのである。
(略)
 中世の英国でも、街は法律や通行料を通じて、行商人が物を売ってよい時間と場所を限ろうとした。執政官は蹄鉄を打った馬が引く馬車の町中への出入りを、橋や通りを傷めるからという理由で制限した。ある街では、馬に川で水を飲ませることを禁じた。近くで遊んでいる子供たちに危ないからだ。だが、交通渋滞はやはり、解決することはなかった。暴走も社会的問題としてつのっていった。15世紀ロンドンの法規集だった『リバー・アルバス』では、荷車の御者に「積み荷のないときに、乗せているときよりも速く走ることを禁じ」ている。(略)
 1720年、軽二輪馬車や大型四輪馬車の「猛烈な運転」による交通事故死は、火事や「不摂生な飲酒」を抑えて、ロンドンで最も多い死因となった。

19世紀の自転車

多くの街が、自転車を頭ごなしに禁止しようとした。馬車ではないからと車道から閉め出され、歩行者ではないからと歩道からも追い出された。(略)
[今日自動車乗り入れ禁止が議論されている公園で100年前]「自転車乗り」たちが自転車の乗り入れを認めろと主張しているのである――新しい自転車エチケットも広まり始めた――男性は女性に、道の右側を譲るべきかどうかというものだ。

自動車の登場

19世紀半ばの英国で電気自動車が誕生したとき、速度制限は時速四マイルに設定された。街に入る車の前を人が赤旗を持って走って警告するためである。
(略)
警笛はある街で「停止」を意味したかと思えば、別の街では「進め」を意味した。赤信号の意味も、街によって違っていた。最初の停止信号は、赤を望む多勢の意見に反して、黄色にされた。ある交通技術者は、20世紀初頭の交通管理について、次のように書いている。「信号も千差万別だった。矢印、紫色、×印などだ。いずれも何らかの指示を出しているのだが、当のドライバー側には、その意味が皆目わかっていなかった」。今日あたりまえになっているシステムは、長い時間を経て定着した結果である。

  • 合流

「この先車線減少」の標示があった場合
1.そこですぐ合流すべきか
2.合流地点までそのまま進み、そこで交互に合流する
「1」を選択した者にとっては、「2」は合流車で渋滞する車線の横を抜けて合流地点でズルをして入り込んでいるように見える。
[検証結果]
道がすいているときは「1」がベターだが、混雑時は「2」の後期合流の方が15%通行量が上る。
そこで両者をミックスした「ダイナミック後期合流法」

これは、電光掲示板を用いるもの。通行量が少ないうちは、通常型合流を呼びかける。そして後期合流法の方が望ましいほど車が増えると、後期合流を指示する道路標識に切り替えるというやり方だ。(略)
[だが実施してみると]車列は35%短くなったが、合流地点の通行量はかえって滅ってしまったのである。
 どうしてか? 多くのドライバーは、「両車線を使用せよ」という道路標示を見ながらも、意味がわからなかったか、従わなかったようだ。指示どおりに行動した車は、ごくわずかだった。早めに合流した車もあれば、新たなルールが飲み込めずに、指示どおり空いている車線を走っている車に幅寄せする車両もあった。最も頑固に通常型合流法にこだわったのは、トラックの運転手だった。おそらく加速や工事箇所での合流に最も手こずるからだろう。閉鎖される側の車線を走るドライバーの中には、となりの通行車線の車にぴったりと併走し、抜こうとしない者もいた。「お先に失礼」する後ろめたさを感じていたのだろう。そうなると後続車は、仕方がないとばかりに、早期合流してしまった。いずれも運輸当局が予想しなかったことだ。

やる気がでないので、明日につづく。