信号・標識をなくせ

前日のつづき。

となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

  • 安全な道路は安全か

とあるスペインの山道、急坂、カーブの連続、舗装は崩落、下手をすれば崖に転落、当然、両手でハンドルをしっかり握り血眼でゆっくり走ることになる。この道は危険か安全か?
見通しのよい片側四車線の高速道路、路面は滑らか勾配もない、その単調さに飽き思わず居眠り運転。この道は危険か安全か?

 真っ先に考えなければならないのは、道路はドライバーに何を、どう語りかけなければならないのか、だ。スペインの山道には速度制限の標識は必要がなかった。スピードの出しすぎが賢明ではないことは、火を見るより明らかだったからだ。これは「自己説明型道路」の極端な形である。過度な助言をすることなく、自らの危険度をドライバーに伝える道だ。(略)
 「広くて見通し距離も十分で、中央分離帯も広く、路肩も広い道を作ったら、ドライバーはこの道は安全だと感じ、スピードを出すものだ」と連邦道路管理局の心理学者トム・グランダは言う。
 「制限速度の標識がどうだろうが関係ない。そんな道路を作った技術者は、ドライバーに速く走れとそそのかしているようなものだ」(略)
いわば、痩せようとしている人にローファット・アイスクリームやクッキーをふんだんに与えるようなものだ。

人は設計速度を越えて走る

 すでに見たように、交通技術者は一風変わった、そして空恐ろしい課題に直面している。人間を扱うということだ。橋梁の設計者なら、圧力や荷重を考えるうえで、その決定が風や波の振る舞いにどう影響するかを気遣う必要はない。より完璧な橋ができたからといって、風や波が強くなるわけではない。だが、道路となれば話は別である。

  • 標識は必要か

「交通世界」と「社会的世界」

 もし「徐行せよ 子供注意」とか「鹿横断」などの標識が人の行動に影響しないのなら、交通標識に意味などあるのか、いっそう全廃してしまったら、というのは、必ずしも乱暴な意見とも言えないだろう。これはハンス・モンダーマンが提起した問いだ。(略)彼は数十年にわたって交通技術界が蓄積してきたノウハウに背を向けて、革新的な交通体系を提唱して有名である。たとえば大きな交差点で信号や標識を全廃するよう提唱するなどだ。
(略)
「交通世界」と「社会的世界」という二つの空間があるという彼の中心的な理論(略)
交通世界を何より体現しているのは高速道路だ。この世界は非人間的で、規格化され、自動車だけのためのものだ。ここでは速度、効率、均一性だけが問題とされる。(略)一方、社会的世界は、オランダの田舎町のようなものだ。そこでは自動車は唯一の住人どころか、お客さん扱いである。(略)行動を規制するのは、抽象的なルールよりも、地元の慣習であり、人間同士の触れあいである。(略)
 モンダーマンの主張は、交通技術者は標準化された標識や道路標示によって、社会的世界の上に交通世界を無理やり覆いかぶせている、というものだった。

交通沈静化

一時停止標識が暴走に歯止めをかけるために有効と考える人は多い。だが、こうした標識は、濫用するうちに効き目が薄れていく。標識を増やせば増やすほど、無視するドライバーが増えるのだ。さらに、一時停止標識で停まったドライバーは、そのぶん標識のないところでスピードを出して、失った時間を取り戻そうとすることが調査でわかっている。[減速バンプも同様]
(略)
 数十年もの間、都市計画者らは人と交通の分離を主張してきた。
(略)
 モンダーマンがオーデハスクの村のメイン・ストリートの改築に呼ばれたとき(略)通りをもっと「村らしく」することを提案した。もっと村道のように見せよう、高速道路に続く幹線道路という雰囲気をなくせば、人々の態度もそれに応じて変わるのではないか。
[結果、通過する車の速度は30キロ以下になった]
 いったい何が起きたのか? モンダーマンは、実質的に、車両、自転車、歩行者の領域を混在させたのだ。がっては明確にそれぞれの領域を分けていた広い大きな通りが、いきなり移動者の錯綜する複雑な世界になった。「道幅は六メートルだった」と彼はオーデハスクの道ばたに立って、説明してくれた。「となれば、自転車が一台入れば二台の車が通りすぎることもできなかった。だから、人々は互いの動きを見ながら、譲り合うしかなかったのだ」。

同方式による別の道路

交差点から信号標識をなくす

 単純に交差点をロータリーに変更するだけでは、問題を半分しか解決したことにならなかった。
 「ロータリーは交通の流れのためには素晴らしいが、非常に都市的な方法であり、空間の質を損なってしまう」とモンダーマンは言う。「ロータリーは回転パターンだ。そして大半の街は格子状の通りを持っている。場所にそぐわず、折り合いが悪い」。モンダーマンが理想としたのは、昔ながらの村の広場にたまたまロータリーがあるというものだった。

完成したロータリー

下記ブログに元の交差点&モンダーマン画像あり
StreetsBlog

  • ガードレール撤去

[ケンジントン・ハイ・ストリートの場合]
ガードレールは車椅子の視界を防ぎ、自転車の逃げ場を失くすからガードレール撤去。

 通りを歩いてみると、印象はドラフテンと同じだった。標識、道路標示、ガードレールなどの構造物がないことによって、景観がとてもすっきりしているのだ。歩道は車道と一体になっている。いくつか信号はあるが、横断歩道の縞模様は描かれていない。どのみち、そんなものを描いておいても大半の人はそこを通るとは限らない。いまやガードレールによって交差点まで誘導されることのなくなった歩行者は、ゆっくりと、しかし着実に流れている交通の合間を縫って、どこでも好きな地点で通りを渡り、向こう側まで渡りきれなければ中央の安全島で車の切れ目を待っている。
 長年、歩行者や自動車のために投入されてきたさまざまな安全策を排した結果はどうなったか? 歩行者の死亡もしくは重大傷害事故は60%も減少し、軽傷事故もそれに準じた結果だった。