メタのらくろ、坂口安吾野球論

1949年「のらくろと私」
のらくろが絵から抜け出してきて「積極的にやってみようじゃないですか」と仲間を集めてくる。犬ばかり集めてもと作者が困惑していると、配役すればいいのですとのらくろ自らペンをとる。のらくろばかりじゃと他のキャラも描いていると、気が多くちゃダメだ、「僕が引っぱり廻してやる」とキャラが作者を引きずるように。戦後、昔のようにあばれましょうかというのらくろに、まあ休んでいろと作者。そして登場した新キャラが左下のなんの特徴もない「漫画のおっさん」。ダメだこりゃ。
でも逆に今なら「漫画のおっさん」、斬新かも。
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  • 一億総反省

1948年『民主ニッポン』14号(日本民主教化連盟)
サボリながらの賃銀値上要求、朝っぱらから映画館を取り囲む働き盛りの青年男女、学童の教科書の紙も不自由だというに本屋の店頭にはエロ雑誌、こんなことでは
金など貸す国はあるまい

  • 三原修

1946年「日本野球・見たまゝの記」

 五月二十二日はビルマからの、私の内地上陸第一日であったが、そぼ降る春雨に鹿児島湾頭は煙ってゐた。噴煙を叶く桜島を仰ぎ、そしてあの焼け落ちて一物をも剰さぬ、南海の城下町鹿児島市を見渡した時、嘗て夢想だにしなかったこの生還の現実にむせび泣かざるを得なかった、それも束の間、むしろこれからの生活の事が頭に去来して、暗然となってしまった。
(略)
 私は東京の十三節や十四節の頃には、セ軍の白木や一言、近畿の別所、中部の服部あたりは、殆ど毎試合の様に出場して、どう見ても使ひ過ぎの感じがしてならなかった。
(略)
 長期戦である以上、常に最上級の投手を使ってベストで戦ふ事は不可能であって、それは初めから充分覚悟の上で、日程に対する投手の割り振りを決定するのである。然るに次第に試合が混んで来ると、投手の予定が全然くるって、さながら一本勝負式の投手起用法になり、どの試合にも色気を出す結果は終にチームの基本勝率(日程発表と同時に充分勝算を見込める試合)をもロストしてしまふのである。そして結局フアスト投手の酷使と云ふ事になるのである。この酷使と過労の問題は職業野球の将来にとって可成重大な事柄で、勝星をあせる監督としては当然無理からぬ所ながら、職業野球のスムースな進歩の為に是非とも一考せねばならない事である。とは言ひながら投手を投手板上で酷使せねばならない事は、或る短時日の間止むを得ない事もあらう、しかし、他のポジションと掛持ちで、今日は投手、明日は一塁といふ様なやり方は何としても賛成し兼ねる。

1948年「日本野球はプロに非ず」

日本の職業野球には、まだ本当の職業精神もなく、組織もできてゐない。なによりも上達、それには、なによりも練習で、まづ練習の完全な組織をもたねばならぬ。試合用の投手のほかに、練習用の投手の十人ぐらゐ用意して、その十人の肩がつぶれるぐらゐ練習したら、どうだ。当りがでないといふならば、さうすればよい。それが当り前のことだらう。
 なんでも、当り前のことをやればよろしいものである。
(略)
 練習用の投手は、金のかゝるホンモノの選手でなくとも良い筈、プレートを近くして投げさせれば、子供を使っても、目にもとまらぬ速球に目をならす練習ぐらゐは出求る道理である。
(略)
 角力には、近代にふさはしからぬ旧習が多く、攻撃の必要は色々とあるが、ともかく稽古の方法が組織化されてゐることだけは、さすがにプロと申せよう。
(略)
プロの力士は腹の底からの力士になりきり、力士以外の何者でもなくなってゐるが、プロ野球の選手は、その心構へからして、大学野球の素人と変りがない。
(略)
[日本の一二番は貧打で塁に出れないのだから、三四番を一二番におき三四番にバントの名手でもおけ。]
 こんな打順が悲しい打順であることは当り前だが、日本の野球は、実際に於て、これだけのものでしかないではないか。
(略)
景浦が打たうと思へば、必ず打った、といふ。私はそんな神がゝり的伝説を信じないのである。そして、にくむのである。(略)
ベーブルースほどの天才ですら、打たうと思へば必ず打つなんて、そんな伝説は、決してアメリカ人はつくりませんよ。
 フリーバツチングぢやあるまいし、かりにも試合に於て、打たうと思へば必ず打つ、などいふ人間が、如何なる職業に於ても現れうる筈ではないのです。それは、神様といって、人間には在り得ないことなのです。
 日本の野球のカントクは、この悲しい選手に絶望もせず、愚かにも、神を怖れぬ迷蒙を信じてゐるのです。どこに近代がありますか。どこに、職業人の血肉をかけた研究と、向上心と、工夫がありますか、
 私は野球は知らないが、文学の職人であるから、職業とは何ぞや、さういふことは知ってゐる。職業は稽古である。勉強である。それに血肉をこめることである。稽古をおこたれば、腕はにぶる。それだけのことである。
 打てなければ打つ練習をするのが全てである。日本のプロのやうな、みじめ惨たるヘタクソ投手を打てないなどゝは、話の外ではないか。(略)

1946年『ミュジックライフ』

 問 最後にイミテーションの問題ですが、例へば先生の「誰か故郷を想はざる」が出るとこれに類似したものが族出する。(略)
 答 わたしのものでなにかヒットが出るとそれに対して、同じやうな傾向を追ったものが、数多く出ると云ふことは、わたしは決してこれが歌謡曲の発展を損ふものとは考へないのです。むしろこれによってその時代の大衆の欲するところが明瞭となってくる、ところがこれに対してなまじとやかく云ふために、切角のこの芽生をこはしてしまふ。とこんなやうに考へてゐるのです。

1946年酒井七馬氏を囲む座談会プロフイル

 ツンと高い鼻に眼鏡をかけた色の白いお坊ちやん−手塚治虫君。得意の長篇マンガを、みんなに見せて唸らせる。このピノチオみたいな坊ちやん、あちこちの新聞に寄稿の外、数百頁の長篇漫画を描き、近く本になると言ふ、怖ろしい怪腕のタカラズカ坊や。

  • 青年会議

1946年『北針』
自由を放縦と混同するから批難されるという話から

戦争中は講堂では禁煙であっても、ふかす者が居った、戦後本当の自由を摑むといふことがいはれ、自治会などで自主的に申合せて、講堂における禁煙は励行されてゐる。これなどは本当の自由といふものを知った一つの証左ではないかと思ふのです。

特に復員された方が目につくのですが、国のためといふことで出征した、それがだまされたといふので、しかも敗戦といふ大きなショックで自暴自棄になつてる方が多いやうに見うけるのです。それが頽廃の原因ぢやないでせうか、考へる力のある人は、祖国再建のために起つでせうけれど、血気にはやつた人にはさういふ思慮分別もない、復員したけれど温い手で迎へてもらへなかつたといふので、闇市に出る、そして遊ぶための金をとるといふやうに享楽的な面が多いと思ひます。