MG’s美学、キング暗殺の影響

前日の続き。

スタックスレコード物語 SOULSVILLE U.S.A.

スタックスレコード物語 SOULSVILLE U.S.A.

モンタレーから二ヵ月後、第二のハウスバンド、バーケイズがデビュー。
Bar-Kays - Soul Finger

共同クレジットの崩壊

[67年のアルバート・キング]「悪い星の下に生まれて」は、「プロデュースト・バイ・スタッフ」とクレジット表記された最後のスタックス産シングルの1枚である。(略)
これ以降、どの新作にも制作者クレジットに個人名が表記されることになる。表面的にはクレジットが変わっただけの、小さな変化だ。だがこれは、社内の共同体精神が崩壊し始めたことを如実に示す、初めての兆候だった。ヨーロッパ・ツアーでファミリーの誰もが啓発された。ツアーに参加した全員が、スタックスは自分たちの認識を遥かに越えるビッグな存在であることを知った。

<ソウル>の登場

 「ソウル・マン」というタイトルは、「ソウル・フィンガー」に続いてこの音楽ジャンルの命名に大きく貢献した。「公民権運動が盛んなころだったんだ」とアイザック・ヘイズは振り返る。「あちこちで暴動があった。覚えてるよ、デトロイトにいた時に、ニュース速報で(近所に)火をつけている光景を見たんだ。建物が燃やされていない地区では、みんな壁に《ソウル》の文字を落書きしていた。当時〈ソウル・ブラザー〉という言葉が話題でね、それで思ったんだ。『〈ソウル・マン〉という曲をつくろうじゃないか。つらい現状からはい上ろうともがき苦しんでいる人の物語を書こう』とね。(略)あれは誇りの歌さ。1967年、同曲はアメリカ黒人のアンセムになった。

Sam & Dave - Soul Man

  • 引き算の美学

アル・ジャクスンのドラム

普通クローズド・ハイハットを使用し、(略)[基本シンバルは使わず、さらに]ハイハットを、それこそ閾値下と思える程、弱くしか鳴らさなかった。(略)
ウッドシェルのスネアドラムを使い、トップ側のヘッドを緩く張っていた。こうすると、多くのドラマーが求める金属的な固いサウンドからはかなり遠いものになる。ジャクスンが欲したのは残響の少ないサウンドで、スナッピーをかなりきつくした。しかも響きを極力抑えるため、トップにはいつも重たい札入れを置いていたという。(略)スティックの太い方でヘッドとリムをきっちり同時に打った。これらが合わさった結果、あの強烈なパンチ力のある、一聴してそれとわかる独特なサウンドが生まれたのである。(略)
メトロノームのように正確なタイム感の持ち主[だっただけでなく](略)
テンポを変えずに、あるいはひとつの楽節から次に移る際にテンポをあえてわずかに調節することで、演奏に「呼吸をさせる」ことができたのである。

ダック・ダンのベース

フェンダー・プレシジョンベースをアンペグB‐15のアンプで鳴らし、弦はフラット・ワウンドにこだわった。「フラット・ワウンドは使い込むと、ブンっていう重たい音が出やすくなる。そのほうがバスドラのドシっとしたのと合うんだよ」

ティーヴ・クロッパーのギター

 弦はギブソンのソノマティックを使い、1弦に0.10、2弦に0.11か、両弦とも0.11を張った。(略)
「2本のゲージが近いほうがいい音で鳴るんだよ。(略)おれは切れるまで変えない。新しい弦を張った時はチャップスティック(リップクリーム)を塗るんだ。ごしごし擦って、弦にすり込む。そうすると、2、3日プレイしたのと同じ感じになるんだ。脂とか埃とかが弦の隙間に入っているようなね」
 この脂がリズムを刻む時の、あの特徴的な切れの良いサウンド作りにも役立ったという。「あのサウンドは、おれのプレイ・スタイルから自然に出たものなんだ。おれはブリッジのすぐ近くで弾く。ミュート的なやつはだいたい、大抵のプレーヤーは下から上に弾いて出すだろ、アップストロークでね。でもおれはダウンで演る。ミュートは指で出すんだ。弾いた瞬間にはもう、手はブリッジに置いていないからね。ピックと指で同時に弦をアタックする。ミュートはその指で出すんだ。(左手の)指でコードは押さえてるけど、押さえ切ってはいないから、音は鳴る。どの音も同じぐらい殺せるように、ちょうどいいところまで浮かせてるんだ」
 “シャリン”という感じのやつを出す時は、フレットの真ん中じゃなくて、フレットになるべく近いところで弾く。そうするとああいうブライト(なサウンド)になるんだ。間違ったコードを弾いても、たぶん誰も気付かないと思うよ。それぐらいメロディックじゃなくて、パーカッシブだからね」
 クロッパーはほとんどの場合1弦から4弦でプレイする。自らのサウンドとホーン・セクションのそれを調和させるためである。[ホーンのミスと思われた音が実はクロッパーのものだったいうほどホーンに溶け込んだ音]

オーティスの死

ドック・オブ・ザ・ベイ。録音直後に飛行機事故でオーティスとバーケイズ(二名を除いて)死亡。スタックスの中心が喪われた。

[フィル・ウォルデン談]
「オーティスと過ごした最後の晩は、共通の友人の家にいた。あいつ、ビートルスの『サージェント・ペパーズ』をずっと分析してたよ。ビートルズの連中が何をやってるのか探ろうとしていたんだ。(略)
[ディランやビートルズを知り]歌詞の大切さを前よりも強く意識するようになったんだ。(略)あれは、あいつがかなり意識して歌詞に深い意味のある曲を書いた結果なんだ」

The Dock of the Bay

68年ワーナー・ブラザーズがアトランティックを買収。ジムはスタックスも一緒に買収してもらえないかと交渉したが、その提示額の低さに激怒、独立してやっていくことを決意。
だがオーティスは死亡、スタックスが育てスタックス所属同然のサム&デイヴは、アトランティックから出向していただけですからと奪われる。しかも例の契約によりそれまでの全作品のマスターテープの所有権はアトランティックのもの。パラマウント・ピクチャーズを傘下におさめるなど多角化を推進するガルフ・アンド・ウェスタン(G&W)への売却交渉を開始。
同時期に起きたキング牧師暗殺により

スタックスに亀裂。

「あれは相当なインパクトだった」とジム・スチュアートは語る。「どすんと楔を打ち込まれたような感じだね。少なくとも、社内にあった人々の疑念があれで外にさらけ出されたのは間違いない。結束を固くして、一緒に仕事を続けようと努力はしたが、あれ以降、会社は大きく変わってしまった。協力して作り上げるという楽しい気分はもうなかった。何かが失われてしまった。それが何なのか、はっきりとは言えない。でも、変わったのは間違いないし、もう二度と戻れないというのもわかる。そういう感じだったよ。みんな自分の殼に閉じこもるようになってね、昔のようにオープンじゃなくなって、人と人との距離も遠くなった(略)
 「あれで、スタックスの人間も、社内での人種の違いに敏感になった」とアル・ベルも言う。「あの時点までは、それほど強くは意識していなかったと思う。キング牧師の死によって、スタックスは甚大な衝撃を受けたんだ。うちは黒人コミュニティの真ん中に位置していた。人種差別撤廃が大きな問題となっている街の中にありながら、人種が融合している企業だった。でもキング牧師の死をきっかけに、あのコミュニティに暮らす(一部の)アフリカ系アメリカ人たちが、スタックスで慟く白人に対して否定的な行動を取り始めたんだよ」

一からのスタートとなった新生スタックス。G&W社デザイナーによる「指を弾くロゴ」が印刷されたスタックス0001番MG's「ソウル・リンボ」他がヒットして好調。動画がないので面白エピソードの曲を紹介。
"Say, who takes care of the caretaker's daughter
While the caretaker's busy taking care?"と歌うシナトラにひらめいて、「誰が面倒を看るんだい」より「Hしているのは誰だろう」の方がオモローとできたのが、これ。200万枚売れた。
Johnnie Taylor - Who's Making Love

田舎臭いメンフィスのレーベルという印象を払拭したいアル・ベルはデトロイトドン・デイヴィスをスカウトするが、BIG6他の古参スタッフから総スカン。A&R部長は彼ではなくブッカー・T・ジョーンズがなるべきだと皆思い、ブッカー自身も同様の気持、デイヴィスの仕切るセッションには参加せず、69年半ばにメンフィスを去る。
明日につづく。