ロスト・ジェネレーション その2

前日のつづき。

1923年

 いまやクーリッジが大統領となり、新時代がはじまりつつあった。(略)
フランス軍はドイツの賠償問題に業を煮やしてルール地方に露営し、ロックフェラーを超える富豪と言われたドイツ人実業家、ヒューゴ・シュティンネスがあたかも独立国家の君主のようにフランスと交渉している最中だった。レーニンは隠遁中で、彼はもう脳みそが萎縮してしまったのだという者もいれば、天罰が下っていまごろ死体になって虫に食われているのさという者もいた。新経済政策はロシアではまずまずの効果をあげているという話だったが、それはつまり苛烈過ぎる共産主義の影響からようやく脱却したというほどのことだった。
(略)
株価は春に一度値下がりを見せたがその後は目もくらみそうな高値に向かってじわじわと上昇し、アメリカ文学もまた興奮とインフレーションの時代へと入りつつあった。(略)
 何冊もある大手の文芸批評誌では、新たな天才あらわるという触れ込みで毎週のように新人たちが紹介され、それも雑誌ごとに違う顔ぶれというありさまで、すさまじいまでの「天才」の過剰生産ぶりだった。

よそ者

 1920年代を通じて、真面目なアメリカ人作家の多く、いやおそらくは大半が母国にいながらにしてよそ者のような気分を昧わっていた。どんなに無関心を装いコスモポリタンを気取っていても、彼らは母国に対して深い愛着を抱いていたのに、その母国からなんとなく拒絶されているような気がしていたのだ。当時この国を牛耳っていたのは、作家たちが自分たちの宿敵として敵愾心を燃やしていたような連中である。なにしろ民間企業の取締役会が大統領府での会議よりも重要というような時代だったし、国家の運命を決めるのが、中高年の銀行家や会社役員であったというのもこの時代だ。

逃避

1920年以来、フランスヘの移住者たちが絶えたことはなかった。(略)初期の国外脱出者たちは、アメリカ社会の重苦しさやピューリタニズムに嫌気がさして国を出たのである。でも彼らは、なんといってもなにかを求めて――余暇、自由、知識、古きよき文化が与えてくれるなんらかの性質を求めて――旅立ったのだ。(略)
[20年代半ば以降]ヨーロッパに惹きつけられてというよりも、背後のアメリカに追い立てられ、なにかから逃げるようにして海を渡ることになったのである。国外脱出者というよりも、彼らは難民だった。

新しい世代

1927年の大晦日から28年にかけてのことだ――突然ニューヨークが、スミス・カレッジやヴァッサー・カレッジを卒業した女の子たちで溢れかえるようになってしまった。彼女たちはみな自分流の生き方をして、わくわくするような恋愛をするんだと決心していた――ソヴィエト人民委員みたいに革製のジャケットをまとい、化粧気のない頬をピンクに染めた生気あふれるその姿のおかけで、エスコート役の青年たちが萎びた冴えない連中に見えてしまうほどだった。戦争中はフラッパーとして少女時代を過ごした彼女たちも、いまや「私たち自身の」世代について語るようになり、それを「あなたたち《失われた》」世代と対比するようになっていた。僕らとしては自分たちよりも若い作家世代がすでにあらわれ、僕らを過去の遺物のごとく蔑んでいるという事態がなかなか受け入れられなかった……。この年はまた人々がヘミングウェイの主人公のように「ハードボイルド」を決め込み、粗野に振る舞い、明け透けにものを語ろうとした時期でもある。「だけどそいつを一皮剥いてみなよ」と、僕は言ったものだ――「隠れているのは優しげな、白い小花のような魂の群れさ」と。

国内に留まった者

皆がみな第一次世界大戦に従軍したわけではないし、戦後をヨーロッパで過ごしたわけでもない。たとえばケネス・バークは身体検査ではねられ造船所で働いている。1922年、ニュージャージーの丘陵地で耕し手のいなくなった農地を買い、いまでもそこに住んでいる――彼はメイン州より東に行ったことがないのだ。ウィリアム・フォークナーはというと、英国空軍での軍務ののち故郷のミシシッピー州オックスフォードに帰っている。二年ほどオックスフォードで郵便局長をやったが、この仕事をクビになると今度はニューオリンズで遊覧クルーザーの操舵手になり、違法のアルコールを積み込んであちこちの入り江を行き来した。1925年の夏にはフランスとイタリアを歩いて旅したが、これが彼にとってははじめてのヨーロッパ訪問で、それ以降は1950年にノーベル賞を受賞するまでヨーロッパに行くことは一度もなかった。
(略)
トマス・ウルフは軍隊入りするには若過ぎて造船所で働いていた。戦後二年間をハーヴァードで過ごし、ジョージ・ピアス・ベイカーのもとで演劇を研究、それからワシントン・スクェア・カレッジの講師になった。1925年以降、ヨーロッパを広く旅したが、フランスよりもドイツを選んだ点でほかの移境者たちとは異なっている。ナチスがドイツを乗っ取るまでは、ウルフはノースカロライナよりもミュンヘンを故郷のように感じていた。
(略)
スコット・フィッツジェエラルドについては1920年代の代表者のように語られるのが常だけれど、ここで言っておくべきなのは、彼が象徴していたのは当時の典型的作家像という以上に、大学を卒業してから実業家になろうというような野心たっぷりの若者たちの姿だったということである。