第二集はぐっと時代が近くなりあまりありがたみがない。モンローとかモンゴメリー・クリフトもそれなりに面白かったが割愛。
ガートルード・スタイン、ヘミングウェイを語る
1925年以降はよくない。彼も初期の短編では今私が言ったようなものを持っていました。ヘミングウェイの場合はなくしたんじゃない、捨ててしまったんです。(略)
典型的なアメリカの小説家じゃないですよ。彼は身売りをしなかったし、文学青年の型にはまらなかった。たぶん自分の型にはまったのかもしれません、でも文学だけのことではないんです。初めてヘミングウェイに会ったとき、彼はまあ実に感情的に繊細な面を持っていました。それは初期の短編に表れてきます。でも内気なものだから、カンザスという大都会の子の残酷な面を盾にするようになりました。本当に繊細でそれが恥ずかしかったんじゃないかな。そしてタフになってしまった。私はそれが見えたので繊細な部分を救おうとしたけど遅すぎました。彼もそれ以前のアメリカ人と同じ道を辿ってしまい、今もまだ辿っています。セックスと暴力に取り憑かれてしまったんです
(略)
彼は自分の中のやさしくて細かい部分をカバーし、偽装し、痛いぐらいの内気さを残酷さに変えてしまった。いやちょっと待って、真の残酷さじゃなくて、だって本当に残酷な男は闘牛とか沖釣りとか象狩りなんかじゃ満足しないんじゃないの。
フィッツジェラルド
彼は瓶の中身を、ベッドサイド・テーブルの上のメジャー・グラスに注ぐたびに、いつも看護婦の方を訴えかけるように見て、「ぴったり一オンス、だね?」と尋ねる。
そのたびに看護婦は何も答えずに、ただ視線を床に落とす。
(略)
「ひとつきついことがあり、また別のきついことがあり」と彼は言った。「それでとうとう何かがぷつんと折れてしまったんだ」
(略)
フィッツジェラルドは部屋から出ていった。
「絶望、絶望、絶望」と看護婦が言った。「昼も夜も、絶望。仕事のこととか、将来のこととか、そういう話はしないでくださいな。あの人は仕事をしていますが、ほんの少しだけです。一週間にせいぜい三時間か四時間くらい」
フランク・ロイド・ライト
(雰囲気を伝えるために、ややブツ切り)
今日建てられるものは何でも近代建築だから、これは実に曖昧な言葉だ。しかし「近代建築」は必ずしも新しい建築を意味しない。真に「新しい」建築は有機的建築だ。
(略)
建築の実体は壁や屋根にあるのではなく、我々が住み込む空間にあると唱えたのは老子だった。内部空間こそが建物の実体なのだ。つまりそれは建物を西洋がこれまでずっとやってきたように外から中へ建てて行くのではなく、中から外へ建てて行くことを意味する。これが道教の教えだとすれば、有機的建築の原理は東洋的だと私は思う。しかしこれまで、どうにかその原理にしたがって建てているのは西洋だけだ。そして私たちの「有機的」建築は、たまたま、この原理の(東洋の模倣ではない)独創的な表現になっているのだ。
(略)
今日の都市は既に定まった道を進む他ない。それは過密によって死につつある。過密が破滅をもたらしつつあるのだ。我々が新しい都市を必要とするようになったら、それを我々の有機的な概念にしたがってつくらなければならない。それは今の都市より農業的なものとなり、大地の一部となり、ほとんどすべての場所に存在するようになるだろう。
(略)
十九世紀の鋼鉄の骨組みは木造の骨組みとそっくりだ。(略)しかしこれは有機的ではない。(略)
私の建築は自らを支えているのだ。たとえば「マイル・タワー」は背骨から肋骨が外へ伸びている。グッゲンハイム美術館では背骨が螺旋になり、肋骨、あるいはそのほうがわかりやすければ床と呼んでもいいものが内側に伸びている。外壁が背骨、あるいは支えで、床は片持ちでそこから突き出している。
(略)
これが二十世紀の鋼鉄の使い方なんだよ。それなのに現在の大都市における鋼鉄の使われ方はすべて十九世紀の建築と同じなのだ。巨大な鋼鉄の骨組みは継ぎ目から錆びて行く。我々が「近代的」と呼ぶ建築の大部分は、実は壁紙の下地に過ぎない。建物の外側は紙張りなんだ。
ナボコフ
ナボコフは長身で、その大股の軽やかな足どりと、こちらをじっとのぞきこむ癖は、かすかにジャック・タチを思い出させた。
「身長は一メートル八十あってね」とナボコフは言った。「骨はとても細い。残りは肉ばかりだ」。彼はまるでジャケットみたいに腕をつまんでみせた。
(略)
彼は小説を書くときに、途中から始めたり自由に場面を挿入したりできるように、インデックス・カードを使う。筆記用具は3Bの鉛筆で、ナボコフの話によれば、これをしょっちゅう削っているという。その端には消しゴムが付いていて、誤りを訂正するときは×印をしたりせずにそれで消す。私がペンで書いているのは、彼に言わせれば、作家として根本的な誤りらしい。携帯用のノートは計算帳みたいに方眼紙でできている。
(略)
ナボコフは、ヘミングウェイの『老人と海』における魚の描写や、グレアム・グリーンの『燃えつきた地図』における密林を描いた一節や詳細な身体的描写について、熱をこめて語った。「これまで読んでみたところでは、フランスの前衛小説はどうも芸術家としての食欲をそそらないね。ときどきいい箇所があるくらいだ。それくらいなら、ショーにだってできる」。ジュネはどうかとたずねてみた。「かなりの敷地がある、おもしろいお伽の国だな」。(略)
音に鈍感な翻訳者は彼にとって悩みの種だ。「衒学者万歳」とナボコフはある序文で傲然と書く。「それに、精神さえ写し取ればすべてよしと考える阿呆もくたばるがいい
英国騎手・レスター・ピゴット
馬にはふたつの側面がある。自然の状態では、馬のスピードは、当の馬を生かすためのものだ――危険が迫ったとき、馬は走る。しかし馬は群れのなかで生きていて、危険から逃れようとするときでも先頭には立ちたがらない。むしろ群れの中央にいたがる。つまり競馬においては、ある意味で馬を自然の状態にもどそうとし、またある意味では自然の意図とは違ったものに訓練して乗りこなそうとするわけだ。