なぜサダムは生き残れたか

灰の中から―サダム・フセインのイラク

灰の中から―サダム・フセインのイラク

1979年イラク全権掌握直後の訓示

 「政治とは何か?」就任間もない大統領はやや甲高い声で、勿体ぶった質問をした。
 「ある事をやろうとするなら、口では別の事をやると言う。それが政治だ。そして、どちらもやらない」
 そうすれば、誰も何を考えているのか判断できない、と言うのだ。

復讐

バース党を権力の座につけた1968年のクーデターの後、サダムは家族を不当に処刑されたと抗議してきた遺族と言葉を交わした。その時、彼はこう言った。
「復讐できるなどと思うな。そのチャンスが来たとしても、その時すでに、われわれの体には一片の肉も残されてはいないだろう」
 サダムは、自分やバース党を八つ裂きにしたがっている人間なら五万と列をなしているぞ、と言ったのだ。

湾岸戦争時、なぜサダムは生き残れたか

 サダムはこの時、イラク十八州のうち十四州の支配力を失っていた。バグダッド自体はまだ無事だったが、政府の役人はすでに沈没船から脱出する準備を整えていた。サダムが国外に逃亡したという噂が広まった。ワシントンとロンドンの多国籍軍のトップは、このような惨状にあってはどんな指導者も生き残れないだろう、と決め込んで安心していた。これが間違いだった。
(略)
亡命イラク人は、クウェート侵攻後の危機の中でも、サダム・フセインに対する民衆の怒りを過小評価する、という逆の誤りをおかした。反乱が南部イラクを襲った時、イラク反体制派勢力には都市部に発生する出来事を指導できる組織が無かった。例えばバグダッドからわずか百キロのヒッラーの町では、反乱軍将校が戦車六台を指揮して首都に進軍する作戦を提起した。
 「バグダッドヘの道は開かれている」
 と彼は訴えた。しかし仲間の脱走兵たちは地元のバース党員のリンチに専念する方を選んだ。ナジャフや他のどこでも、体制転覆の陶酔感がアナキズムにつながっていった。
 「初めは、私たちはそれほどクレージーではなかった」
 学校教師のハミードは、ナジャフの最初の日々のことを語る。
 「私たちは、信号機までサダム・フセインの回し者だと思い込み、信号機を壊した」

反乱の裏にイランありと印象付けるためにホメイニのポスターを貼らせたサダム

 アル・ハキム師の名前で出された声明は、反乱の支配権を全面的に主張するものであった。
 「この筋をはずれたいかなる行動もとってはならない。イラン領土内を拠点とするいかなる党派も、アル・ハキム師の命令に従わねばならない。いかなる党派も義勇兵を募ってはならない。イスラム教の正当なもの以外に、いかなる思想も宣伝してはならない」
 これほど反乱を孤立化させるものは無かった、このイスラム革命志向にスンニ派クルド人キリスト教徒、非宗教のイラク人、それにバース党とつながっていた者など多くのイラク人が驚かされた。アメリカと同盟国もこのようなスローガンを喜ぶわけがなかった。これは、サダム・フセインにとってきわめて好都合な事だった。反乱の主役がイランとイスラム戦士だということになれば、彼がばらまいていたイランが関わっているという証拠を、イラクの反体制派指導者が容易に信じ込むからだ。イラクの非宗教反体制派の古参、サアド・ジャブルは強調する。
 「サダムは手下のムカバラート(秘密警察)にホメイニ師の写真を持たせて南部に行かせた。(略)[イラン側は]コーランに誓って、写真は送っていないと言った」

反乱軍無線傍受し確信を掴んだサダム

「米軍に支援を求めに行った」
 と一方が報告する。
 「彼らは『あなたたちはアル・サイード派(ムハンマド・アル・ハキムのことか)だから支援するつもりはない』と言った」
 「再度頼んでみろ。戻ってもう一度頼むんだ」
 返事はすぐ返ってきた。
 「彼らは『あなたたちの支援はしない。なぜならあなたたちはシーア派でイランと協働しているからだ』と言っている」
 アメリカのイラン介入への恐怖が、反乱に死の宣告を下したのだ。もしイラクの指導者が本当に反乱諸都市へのホメイニの写真配布を画策したのなら、その策略は見事に成功したわけだ。いずれにせよ、ここがターニングポイントだった。これでついに助かった、とサダムは思った。
 アル・サマライは言った、
 「このメッセージを受けて、体制側の立場は一気に自信を回復した。(サダムは)ここでインティファーダヘの反撃を開始した」

1991年のあの決定的な最初の一週間、

サダムの運命は果たしてどうなるか全く分からなかった。軍隊の多くの上級士官や政府官僚は、沈む船を棄てて反乱軍に運命を託そうと考えていた。しかし、負けたら最後、とんでもない目に遭うわけで、これまた非常に危険な賭けである。選択する者にとって、アメリカの出方が決め手になる。ブッシュは、バランスを崩すために軍隊をバグダッドに向かわせる必要はなかった。支援を仄めかすか、あるいは反乱軍を激励することだけでおそらく十分であったろう。ところが、ワシントンとリヤドの米軍司令部は、サダムのヘリコプターの航行を見逃すなど、反乱軍の勝利には少しも関心が無いような素振りを見せただけでなく、反乱軍の伝令に対して、援軍は送らないと明言した。サダム側はこれをすばやく察知した。

以前米官僚にイラク反体制派だと自己紹介して「イランに協力してどのくらいになる」と背を向けられた経験のあるライト・クッバはクウェート侵攻の際に

ワシントンまで行き、国務省の中級官僚とオフレコの会見をモノにした(「イラク反体制派」とは言わないように気をつけた)。アメリカはイラクに民主主義思想を推進するために侵攻の危機を生かすべきでは、と真剣に問うた。
 「アメリカがイラクに民主主義を求めている、と誰が言っているのかね?」
 と、相手は顔を紅潮させ、いかにも官僚的に高飛車に言った。
 「それは、同盟国のサウジアラビアを怒らせるものだ」
 クッバはショックだった。

明日につづく。