高橋源一郎が映画「靖国」を斬る

文学界六月号『ニッポンの小説』。

高橋源一郎が映画「靖国」を表現として駄目だと斬っている。(「靖国」で辿り着いて、なおかつ高橋源一郎を知らない人の為に説明すると、高橋さんは靖国とか九条改正には反対の立場)

1.古い、と感じた。
2.狭い、と感じた。
3.歴史、というものは、そんなにつまらないものなのか、と感じた。

7.自分に関係ないものを見ないことにしている人の視線を感じた。その結果、世界のほとんどは、自分とは無関係になるのに。
(略)
9.これらすべてをまとめていうと、自由ではない、と思った(感じた)ことになる。これを作った人は、おそらく、漠然と、「自由」のようなもの、を求めて作ったのではないか。ところが、できたものは、その人が目指しているものとは、真逆なものになってしまったのだ。でも、それも、また、よくあること。

刀鍛冶の刈谷さんに監督は質問するのだが

刈谷さんが感じていることは、『靖国』の監督がするような質問では、うまく答えられない種類のものばかりではないか。
 それは、映像を見ていれば、わかる。なのに、なぜ、監督にはわからないのか。
それは、監督が、自分が撮影している映像を見ていないからではないか。
 そんなバカな、と思われるかもしれないけれど、それは、よくあることだ。
 「小説」だって、そうだ。
 小説家たちも、書くのに忙しく、自分の書いている「文章」を、読んでいられない。そういう「文章」で、多くの小説はできている。

不満

 この監督にとって、いちばん大切なことは、「靖国」についての自分の考えを主張すること、だった。(略)
[「靖国」をめぐって色々な人達が色んな主張をする]
どちらの「主張」に説得力があるかを判断するのが、観客であるぼくたちの役目なのだ。(略)
あるいは、それしか観客の役割はない、と彼らは考えているのである。
そうだ。
ぼくの不満の原因は、そこにある。
 彼らは、彼らの「主張」に忙しくて、ぼくたち観客のことを、ちっとも考えてはくれない。(略)
[彼らは否定するだろうけど、観客をバカだとみなし啓蒙しようとしてるのではないか]

そして決定的瞬間が。質問を受け流していた刈谷さんが

「小泉参拝をどう思う」と逆質問。

 それに対して、監督は、答えをはぐらかす。ただ、それだけのシーンだ。ぼくは、監督は、ここで致命的な間違いをおかしたと思った。
 「ちょっと、お訊ねしていいですか」といわれた時、監督は、カメラを、刈谷さんに渡すべきだったのだ。
 そして、それまで撮られるだけの対象だった刈谷さんに、「今度は、あなたが、わたしを撮ってください」というべきだったのである。
 その時、観客である我々は、画面がグルリと反転するところを見るはずだった。そして、それまで、映されていたのは、世界の「半分」だけで、残りの「半分」は、隠されたままだったことに気づくことができたはずなのである。
(略)
予定外のことが起こったのに、監督は、対処することができなかった。
 ぼくの考えでは、ほんとうに重要なことは、いつも、予定外のこと、だけなのだ。
 それは、いつなんどきやって来るか、わからない。
 その瞬間のために、我々は、ずっと待ち続ける。全神経を集中して待つ。
 そして、いざ、ことが起きれば、すぐに反応しなければならない。瞬間は、すぐに去るからである。
 詩や小説だって、同じだ。
 なにかを考える、ことも。
(略)
 ぼくが「重い」と思ったのは、この映画の反応の鈍さのせいだ。「重い」のは、なにより、この映画の「足取り」なのだ。
 カメラは、撮るべき対象が目の前にいるのに、いったん、シナリオ(ことば)に戻ってしまう。(略)
 その時には、もう、撮るべき対象は、遠くに去ってしまっているのに。

訊問調書なんか作っちゃダメだ

監督が刈谷さんに質問する様子を眺めるうち、高橋源一郎は40年前学生運動で逮捕され調書を取られたことを回想する

 ぼくは、下を向き、「ぼくがしゃべった内容」と称するものを、聞いていた。
 その時、ぼくは、ほんとうに、心の中で、こう叫んでいたのだ。
 「これ、近代文学そのものじゃん!」(略)
[そこにはひとりの若者が学生運動に入り込んでいく様子が簡潔に描写されていた]
ぼく自身の「告白」らしいものを、ぼくは聞いて、すごくわかりやすいなあ、とぼくは思った。
 それにしても、その「訊問調書」の中に存在している人間は、ほんとうにぼくなのだろうか?
 それが、ほんとうにぼくなのだとしたら、そんなに裏表のない、そんなにわかりやすい人間とは付き合いたくない、とぼくは思った。
 それから、この「訊問調書」を書いたのは、誰なのだろう、と思った。
(略)
「法律」が、というか、「近代文学」が、というか、「近代」が、というか、なにかそのようなものが書いた、という他、ないのである。
(略)
 ぼくは『靖国』の監督が刈谷さんに質問をしている様子を見ながら、
 「それは、訊問だよ」といいたくなった。
 「訊問調書なんか作っちゃダメだよ。そんなことは、そんなことは、小説に任せておけばいいじゃないか」と。

他人とコミュニケートすること

靖国に合祀された親族名削除を求めて来日した台湾美人登場。正義の熱弁をふるう彼女のアップにいたたまれなくなる高橋。

 いくらなんでも、彼女にだって、「正義のことば」以外のことばがあるはずだ。でも、監督は、そういうものに一切興味を示さないのである。
(略)
 誰も、彼女に、「そのやり方、ちょっとまずくないですか?」とはいわない(ぼくだって、いえない。なにしろ、彼女は間違っていないのだから)。
 監督も、もちろん、いわない。逆に、無言で(カメラで)、「いいねえ。それでいって。どんどんいって」といっているみたいだ。
 その結果、彼女は、ある、狭い場所以外では、孤立することになる(これが「狭い」と感じる理由だ)。
 つまり、他人とコミュニケートすることに失敗する。でも、彼女は、そのことを知らない(いや、もしかしたら、内心では薄々気づいているのかもしれない。監督より、ずっと明晰そうな人だから)。

小泉参拝支持の人達も持て余す、

軍服で靖国に集う人達

 いや、ほんとうは、その人たちだって、どう扱われていいのか、わからないのだ。
 台湾人の彼女が、実は、少し困っているように、その、軍服を着たおじいさんたちも、困っているのではないか、とぼくは思った。
 おじいさんたちは、(終わった)歴史に捉えられている。それは仕方のないことだ。そして、捉えられながら、無意識に、そこから逃れようとして、誰かとコミュニケートしようとして、軍服を着て、靖国まで行進してくる。
(略)
どこかへ戻ってゆくおじいさんたちを、ずっと追いかけていけば、いいのに、とぼくは思った。
 きっと、どこかで、おじいさんたちは、軍服を脱ぐのだ。暑かったから、ビヤホールに入ってビールを飲むかもしれない。そして、靖国のことなんかすっかり忘れて、嫁や、冷たい孫の悪口をいいだすかもしれない。
 その隣の席なら、いても、恥ずかしくないのに、とぼくは思った。
 そこには、たくさんの人がいて、そのたくさんの人たちが、たくさんのことを抱えているのに、「靖国」のことしか撮らないのは、もったいない、とぼくは思った。
 だが、たいていのものは、そうなっているのだ。
 あらゆるものを撮ることはできない。あるゆるものを書くことができないように。
 なにかを選び、なにかを捨てなければならない。その時なのだ、試されるのは。
 そのことを、ぼくは『靖国』を見ながら、痛切に感じた。