中世の覚醒・その2

前日のつづき。

中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ

中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ

インノケンティウス三世

1215五年にインノケンティウス三世が召集した第四回ラテラノ公会議カタリ派の主たる教義すべてに有罪宣告を下しただけでなく、ユダヤ教徒その他の非カトリック教徒に対して特別な服装をするよう(ほとんどの地域では黄色いバッジを身につけるよう)命じていた。
(略)
 興味深いことに、反カタリ派動員令を拡大して、そのほかの潜在的に「破壊的な」宗教運動もその対象に含めようという動きに最も頑強に抵抗したのは、インノケンティウス三世その人だった。明白な異端者や宗教上のライバルに対してはきわめて残忍であったにもかかわらず、この教皇はあくまでグレゴリウス改革の信奉者であり、急進的な教会改革に熱心に取り組んでいたのだ。彼の業績の中で特筆すべきは、ベルナールら旧世代の保守主義者たちを脅かした民衆主体の福音伝道集団の多くを、カトリックの教会組織に組み入れたことだった。

カタリ派批判がアウグスティヌス批判に

カタリ派アウグスティヌスの見解を拡大解釈し、さらに歪曲して、好色でやみくもに繁殖し続ける物質世界はそれ自体が悪であり、それゆえ堕落した天使あるいは悪神の創造物であると主張した。カタリ派に対抗するためにアリストテレスを援用したことは、アウグスティヌスの見解をも貶めるという予想外の結果をもたらした。(略)
アウグスティヌスアリストテレスの悪の見方が矛盾することについて、ギョームは率直に論じることができなかった。それゆえ、この仕事は彼の後継者たち、とりわけドミニコ会の巨頭トマス・アクィナスに受け継がれた。

トマス・アクィナス

の画期的な業績を貫いている主要なテーマは、「神の恩寵は自然を破壊せず、自然を完成する」という思想だった。(略)トマスは理性の領域を神学の守備範囲の奥深くまで拡大し、彼のいわゆる「自然神学」を創設することによって、同時代人の度肝を抜いた。ここに至って、トマスは危険な急進主義者であるという評判が立ち始めた。トマスによれば、自然の理性を用いて証明できない教義は三つしかない。すなわち、無からの宇宙の創造と、三位一体としての神の本性と、人間の救済におけるイエス・キリストの役割である。これら三つの真理は信仰のみに依拠しており、経験から論理的に導き出すことはできない。だが、このほかの神学上の教義は――創造者の非物質性や、完全性や、善性や、全知性などの属性だけでなく、神の存在そのものさえもが――観察されたデータを理性を用いて分析・総合することによって導き出すことができる。

地上での苦しみを慰めるものとして天国への希望を説く代わりに、トマスは死後の生を、地上で享受できる相対的な幸福によって人間がすでに曲がりなりにも経験しているものとして描き出したのだ。(略)
[人間の宿命は]天国をめざすことだが、その地上の住処も、アウグスティヌス流の悲観論者が説くような、涙や堕落した肉体や知的幻想の領域ではない。自然の世界はいかなる意味においても悪ではなく、究極的には不完全ですらない。なぜなら、あらゆる事物の本性は、神における完成に向かって不断に、そしてたがいに調和しながら進むことであるからだ。
[1277年パリ司教タンピエがトマスの教説を断罪。しかし50年後にトマスはローマ教会によって列聖され、トミストはあらゆる異端の容疑を解かれた。]

オッカムの剃刀
トマスとは別のアリストテレス解釈

理性は神のはかり知れない意志に従う自然に内在しているのではなく、人間の精神に内在している(略)
 この青天の霹靂ともいうべき言葉とともに、近代の経験科学が誕生した(略)
トマスは人間の知性と神のそれを結びつける絆が存在すると仮定したが、ウィリアム・オッカムはその絆を断ち切った。「オッカムにとって、人間を神に結びつける絆は信仰をつうじてのみ得られるものだった。(略)
こうした限界を認識することは、必ずしも人間を意気消沈させることにはならず、むしろ人間を解放するという結果をもたらした。科学的な発見を神学的に解釈しなければならないという重圧から解放されることによって、「私たちは新しい楽観主義、新しい力、新しい技術をもって自然にアプローチできるのだ」。

 オッカムの剃刀は、自然科学や社会思想や哲学のそのほかの分野すべてを、それらが拠りどころとしているキリスト教から断ち切ってしまいかねなかった。のみならず、神学を骨抜きにする恐れすらあった。(略)
教会から知性を奪うとともに、教会を世間から孤立させてしまうだろう。その一方で、すでに大量の官僚と法律家を採用している世俗の統治者が、ヨーロッパにおける学問の大パトロンとなるだろう。その擁護者が伝統と権威だけでなく、自然の理性にも訴えることができなくなったら、どうしてカトリックの信仰が栄え、広まることができようか? もし、オッカムがもっと穏やかに彼の見解を表明していたら、そして、教会政治から距離を置いていたなら、オッカムの思想が内包する危険性は気づかれずにいたかもしれない。

残り少しだが明日につづく。