前日のつづき。
脳内駄文に関してはどうしても書きたいというモノ以外は書かないようにしているのだが、今日は書いてしまおう。
- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/12
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 58回
- この商品を含むブログ (58件) を見る
橋本の文章を読んでいくのが苦痛になったのである。
脱落して、それでもどうにかならぬかと一応最後まで読んで脱落したのである。最終章のあとがきでちゃんと著者自身が自分でまとめているので、わからないはずもないのだろうけど、それすら読む気がおこらないのである。
こちらのそんな事情なんか世間はどうでもいいわけで、前回の引用だけでスッパリ終わるか、素知らぬ顔して各章まとめetcを引用して済ませばややこしくないのだが、うーむ。
権威の「ど真ん中」にいながら「学問の世界」と自分の信じる「学問」との誤差を感じて孤立する小林秀雄を描く橋本は何を感じているのか。
どう見ても昔の橋本は権威からすれば「おすぎとピーコ」であって、橋本はそんな権威とは無関係な場所で「橋本治というジャンル」を確立していたのだが、源氏だ平家ときたからなのか、権威の「ど真ん中」が空家になったからなのか(なにせ外務省のカイ僧が駄文を「ど真ん中」で書き散らす時代であるからして)、いつのまにか橋本治が小林秀雄を語る羽目になってしまった。いや別に橋本が小林を語るのは構わない、語りたければ「橋本治というジャンル」で橋本言語で語ればいいのである。問題は橋本に「ど真ん中」で語らせている方である。橋本が小林の「孤立」を語るとき、「ど真ん中」で語らせられている橋本自身の「孤立」を投影しているのではないか。一体オマエラ権威はどの面さげて「おすぎとピーコ」に語らせているのかと。
たとえば
私にとっての小林秀雄は、「慰め励ましてくれるじいちゃん」だったのである。愚かな孫は、小林秀雄の『本居宣長』を読んで、「そうか、ちゃんと学問をすれば、じいちゃんが言うみたいに、自信をもってなんでもやることが出来るのか。学問というのは、そういう自信を与えてくれるのか」と思ったのである。だから、「もう一度ちゃんと学問をしてみようかな」と思った。これがそもそも、私=橋本治にとっての、「小林秀雄の恵み」だったのである。
これはいつもの語り口で抵抗はない。
ここから「橋本ナビ」の誘導で「ヒデオ市」をドライヴすると読みたくない文章になるのである。それを無理して読んで到着した場所は行き止まりみたいな事が続いてイヤになるのである。それはオマエのアタマが悪いだけというのが悲しい結論なのかもしれないが、「ど真ん中」じゃなければこんな文章にならないのじゃないかという気がするのよねー。
という頭の悪い愚痴で終了。
惨敗気分を画像で表現してみました。