小林秀雄に自己投影する橋本治

本居宣長に自己投影する小林秀雄に自己投影する橋本治なのですねと途中まではついていけていたのだが、脱落。

小林秀雄の恵み

小林秀雄の恵み

藤原俊成はなぜ

「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」と言ったか

 俊成の言は、「紫式部の和歌の才能はたいしたものではない。彼女の才能は物語を書くことにある」である。そう言ってしかし、「『源氏物語』を読むべきである」と続ける。読むべきものが「『源氏物語』中の和歌」でないことは明白だろう。『源氏物語』の中には、和歌を誕生させる土壌としての人の心理が潤沢にある――それを読め、である。
 その土壌から生まれた『源氏物語』の作中歌が、独立した和歌としては、俊成には「熟していないくだくだしいもの」に見えるのである。そしてまた、その通りなのである。
(略)
[源氏の]主役達は、自身の役割ゆえに「生の声」を発せられない。作中人物達に敬語を使う作者は、「よき人達の生の声」を緩衝し、遮る立場にさえある。そのヴェールを超えて聞こえて来る「生の声」は、ただ一つ和歌であり、『源氏物語』の作中歌は、間接話法で貴かれる文章の中に登場する、唯一の直接話法なのである。
(略)
 和歌は、敬語によって成り立つ制度社会のあり方そのものを、無効にしてしまう。無効にして、しかし和歌というものは、長らくその制度社会の中枢に公然と存在していたものなのである。和歌というものがそうしたものだということを理解しないと、なにも分からない。『本居宣長』を書いた小林秀雄でさえ、そのような理解を明確にしていたかどうかは分からない。その理解が明確でないからこそ、彼の『本居宣長』は、難解の繁茂する悪路を突き進むことになるのだと思う。

宣長は師匠の賀茂真淵にヘタクソな和歌を送って顰蹙を買う。しかし宣長は気にかけない、「生の声」で師と語り合いたかっただけなのだ。

何故自分は源氏のように生の声で語れないのか。

源氏物語』にその「土壌」はある。しかし、『源氏物語』以後にその「土壌」はない。その「土壌」はどこへ行ったのか? その「土壌」はなぜ消えたのか? 消えてしまったその「土壌」は、どこから生まれたのか?――その謎を求めて、本居官長は「『源氏物語』に於いて“生の声を発せさせる”を可能にした土壌」のルーツ探しを始める。宣長はかくして、『古事記』へと向かうのである。

日本近代知性の誕生を本居宣長の時代まで遡るヒデオに感動するオサム

近代と近世の間にある堤防は決壊して、日本の近代は水没する――「それでもかまわない。必要とされるものは“学問する知性”という、これまで見逃がされていた前提の確立である」と、近代知性の大家小林秀雄が言うかと思って、身が震えるほど感動したのである。

折口宅を訪ねた小林

 ある感懐を抱えてもどかしがっている後輩がいて、それに対して教えを乞われた先輩は、ただ自説を述べるだけで一向に答えてくれない。(略)当然折口信夫は、それまで『古事記伝』に関する否定的な評ばかりを語っていたのだ。
(略)
 「なんで小林秀雄は、“では、さよなら”と言って消えてしまうだけの折口信夫を登場させたのか?」と思うと、どうしても、「折口信夫はいやなやつだから」ということにしかならない。(略)
この冒頭の小林秀雄折口信夫の関係は、本居宣長と彼に常識をひっくり返されて困惑する当時の知的権威達との関係と、そっくりなのである。であればこそ『本居宣長』は、そういう冒頭を持っていて一向に不思議ではない著作なのである。
 『本居宣長』は、そういう冒頭を持つ。つまり、「学問しようとする私の前には、その私の内容を理解しようとしない知的権威がいる」である。

宣長の意図

妻のいる墓の他に「愛しい桜」と暮らす私的な墓をつくろうとする宣長の意図を汲めず弟子達は混乱する。
隠したい真意を知られるくらいなら誤解されている方がいいという宣長に自己を投影しているヒデオ

宣長が困るのは、誤解されることではなく、正しく真意を言い当てられてしまうことだろう。なにしろ彼は、死ぬと同時に「秘密にしていた愛人との同居」を開始してしまうのである。《慎重な生活者》であり《誠実な思想家》である本居宣長にとって、そんな「スキャンダルの露顕」は、決して好ましいことではないはずである。
(略)
小林秀雄は明らかに、「読者の誤解」を前提としているのである。
 小林秀雄が「読者の誤解」を代償としてなにかをやりとげたかどうかは知らない。

自分でジャンルを確立してそれを馬鹿馬鹿しいと投げ出し売文業だと称して「随筆」を書いたヒデオは宣長に自己投影し、道がないから自分で道を作っちゃうオサムはそんなヒデオに自己投影。
三人とも能書きだけのモノのわからない奴等にうんざりしている。

小林秀雄は「宣長の生涯の素描」を、こう締め括る――《彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。》

中江藤樹の登場する(八)で普通の読者はついていけなくなる。だがそれは知識がないからではない、だって知識のないオサムがついていけるのだから。
“Don't Think. Feel”の世界に突入

重要なのは、ただ「小林秀雄の書いたことを読む」だけである。
(略)
小林秀雄もまた、《決して許さなかった人》である。だから私は、知識を持たぬまま、《確信》だけで入って行く。

とりあえず明日に続く。