20年前の橋本治

前日の流れで。
ひょっとしたら橋本的文章がダメになっただけかもと思い、確認の為に昔の本を読んでみたので、メモ代わりに引用。

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)

1987年、齢40を前にした橋本の6時間トーク。企画したのは西武時代の保坂和志
いまや「ど真ん中」で小林秀雄を語って(語らされて)いる橋本治も20年前はこんな調子だった。

 大体俺なんか、作家としては小説現代新人賞の佳作なんだからさ、別に、こんな体張ってエラソウな仕事する理由もないんだし、そんだけですよ。エラソウな話聞きたかったら、エラソウな作家に聞けばいいじゃんて思うよ。

引用しなかったところでも面白い箇所はあったのだが、橋本の語り口上なかなか短く引用しづらいというか意味が伝わらないので断念(引用したものでもチョット違う意味にとられてしまうおそれのあるとこもあるので、ヨロシク)。
ニューアカ」wは全共闘アジビラ似てる

 なんでそんな面倒臭い言葉を使うのかってさ、その面倒臭い言葉使えばカッコいいっていう、ほとんど「ニューアカ」なんですよね。だからある意味で、ニューアカっていうのは、もうそこら辺学問の中身なんか全部とっぱらっちゃって、「僕達が言いたいことは、“みんな嫌いだ”っていうことだけだ」なんだけれども
(略)
冷静であるべき難解語の中で、「ヤダッ、そういうのともかくヤダ。何かがイヤダ、絶対にヤダッ」って言う語調だけは激しいのね。すっごく難しい言葉で書き連ねてある、その語調の激しさだけは、分かる人には分かるわけ。その激しさが好きだからニューアカが好きになったようなもんで、そこに何が書いてあったかどうかっていうこととは、ちょっと違うんじゃないかっていう気はする。で、そこら辺は、とっても全共闘アジビラに似てるような気がするのね。何書いているか分かんないけど、「ねェねェねェねェ、よく読んでみて。ここには熱気というものが――何か訴えたい熱気ってちゃんとあるでしょ。そんでその訴えに関しては正しいでしょ」って言われて、「うん、正しい」っていう風になるんだから。

 俺は「ズボンをはいた女の子」ではあったのね。

ま、性的なものを抱え込んでそのことをオープンに出来ないまんまでいると、人間は女になるのね。女の鬱屈ってそういうもんなのね。で、男の子が、何故女にならないですんでいるのかっていうと、性的なものを抱え込まなくてすむからね。抱え込み始めると女性的に物事を考えざるを得なくなるから、排泄っていう“行為”に変える。

女装

昔っから僕は、女の格好したいとは思わないのね。でも、女のしてる格好の、その、なんかが羨ましいから、「自分の中にそれをとっつかまえるにはどうすればいいんだろうか?」ってことばっかりやってる。結局自分がやってるのは、男というものの領域を広げていることだけだなって思うのね。

[大学生が全共闘で「男の子」に退行した時に、女子大生は「スカートをはいた男の子」という自分に出会ったという話が少し前にあって]

[女の歴史を]この先どう作ってくかっていうのは、やっぱり「スカートをはいた男の子」でありさえすればいいわけでしょ? だって、男の子が男に犯されるのは、別に不自然でもなんでもないわけで、スカートはいた男の子が男に犯されたって別にいいわけじゃない? まァ、“犯される”っていう表現がなんでしたら、“抱かれる”っていう表現に変えたっていいわけだけれども、それだけのことなんだから、それでいいんじゃないって思う。
(略)
 なんか、男であることに、女の人は妙に過大、過剰な評価をしているような気はするんですよね。なんかそれこそ、女の要求の分かりにくさっていうのは、全共闘アジビラの分かりにくさみたい。(略)
「だってあなたは私のこと分かってくれないじゃないよォ」っていう形で入ってきちゃうのね。だから「こわいからヤダッ」って、男はどんどん気が弱くなってくんじゃないのかなァはあるけど

民主的夫婦は「後家と息子」

 父親が死んだっていう前提で自分の夫を子供のまんまにしとくのは、これは男を殺してるに等しいわけでね。「男」になるのが危険だから、男は一歩下がって、「男の子」やってんでしょう。民主的って、そうだよ。
 大体、民主的な男ってロマンチックなものには憧れるんだけど、ロマンチックなものが全部苦手だっていう人ばっかりだからさ、公然とロマンチックにはなれないんだよね。だから、おずおずと譲歩して、民主的になっちゃう。結局手ェ握ると、後家と息子の関係にしかならないのね。自分の奥さん、後家にしとくのってちょっと何か考えてほしいんだけどな。

男の愛情

 男って、性欲ってこと離れると、譲歩しか愛情の表現知らないんだよ。譲歩しか他人に愛情を示せないから、可哀そうな人には愛情を注げるのね。で、「いいなァ」と思う相手にはコンプレックスしか持てなくて、自分と同質なものになってくると、戸惑うのね。
(略)
 高いところから愛情注ぐのが男の愛でしかない、っていう風なところがあるもんだから、高さがないと愛情が成立しないのね。同じになっちゃうともう愛情が成立しなくなっちゃうから、合意するしかなくなっちゃって、合意っていうことになってくると、もう合意は合意で動かないんだよね。固定されちゃうのね。

20年前のアッパラパー宣言

 三十になった時ね、「うん、こういう三十はあんまりいないかもしれないな」って思ったんだけど、来年もう四十ですからね。こういう四十は死んでもいないだろうな。なんか前代未聞のようにいないだろうなと思ったら、「ざまあみろ、なんかをひっくり返したぞ」と思うのね。やっぱり、四十でこれをやってはいけないとは誰も言わなかったけど、四十でこれが出来る筈ないって、そういう前提が何かであったんだよね。これっていうのが、何を指すのかよく分かんないけど、要は、こういうアッパラパーに派手な自分ですよ。軽薄な。

変態

 僕がほしいのは、「何か出来る」ってことなんだよね、一杯色んなことが出来なかったから、「ああ、あれが出来たらいいな」って思ってた。「それが出来る」ってことだけが重要でありたいんだけど、でも「なんか出来る」ってことを評価してないで、社会人になってるかどうか、「態度」だけなんだよね。
(略)
だから、「色んな個人いてもいいじゃないか」っていう――俺、やっぱりその、全共闘の時代にさ、言ってもよかったんだよね。それこそやっぱし、自分なりの言葉で言ってたっていいんだよって、そういう門口にもいたんだけどさ、でも俺やっぱし、言おうとしなかった部分もあるっていうのはさ、だって俺、普通に言ったら変態なんだもん――同性愛者って。やだそんなの。

ココで、理解されない「自称」音楽制作を続けるoleが号泣

何が一番つらいかっていうと、橋本治という思想家が存在しなかった時代の橋本治が一番つらいんだよね。だって、自分の思想ってなんにもないんだもん。だからやなんだよね。なんか、一直線で真っ直ぐで、自分の前には一直線の何かがある筈なんだけど、見えないわけ。だから誰かが手伸ばしてくれるんじゃないかと思ったんだけど、来ないわけ。でもそれはやっぱり、自分でやってかなくちゃいけないことだと思うから、だから作るのよ。だけど作ってく段階って、つらいもの。こんなことやってて、「じゃあ、こんなもん作るっていうこと自体が自分は異常な人間なんじゃないのっていう証明じゃないの?」って思うしさ、でもやっぱり、「それがなかったら誰からも愛されないし、誰にも褒められないような存在じゃないの?」って思うから、作るよね。で、作れば作るほど孤独になるって。あー、いやだって、それで泣いてばっかりいたっていうのあるんだけど、でもやっぱり、俺さ、三十くらいになるじゃない。で、物書きになったじゃない。で、つらいと思うじゃない。でもつらいと思ってもさ、でもこれで俺、やめられないと思うのね。
 で、何に対してやめられないのかっていうと、十七の自分に対してやめられないのね。「やだ、僕はやだ。こっちじゃなくちゃ、やだ」って言うから、「分かってるよ、そんなこと分かってるよ、うるさいな、こっちだろ」ってことやってるから。