年賀状は非礼

前日のつづき。

岡本綺堂随筆集 (岩波文庫)

岡本綺堂随筆集 (岩波文庫)

 

年賀状は非礼

さてわたくし確固たる信念もなく頑なに年賀状を出さない人間なのですが、これを読んで言い訳ができたと感激。

 明治の中頃までは、年賀郵便を発送するものはなかった。恭賀新年の郵便を送る先は、主に地方の親戚知人で、府下でもよほど辺鄙な不便な所に住んでいない限りは、郵便で回礼の義理を済ませるということはなかった。まして市内に住んでいる人々に対して、
郵便で年頭の礼を述べるなどは、あるまじき事になっていたのであるから、総ての回礼者は下町から山の手、あるいは郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければならない。(略)
[電車は路線が少なく、人力車も高価で台数も限られるので]
男も女も、老いたるも若きも、殆どみな徒歩である。(略)
春の初めには回礼者が袖をつらねてぞろぞろと通る。それが一種の奇観でもあり、また春らしい景色でもあった。
 日清戦争は明治二十七、八年であるが、二十八年の正月は戦時という遠慮から、回礼を年賀ハガキに換える者があった。それらが例になって、年賀ハガキがだんだんに行われて来た。明治三十三年十月から私製絵ハガキが許されて、年賀ハガキに種々の意匠を加えることが出来るようになったのも、年賀郵便の流行を助けることになって、年賀を郵便に換えるのを怪しまなくなった。(略)
[あまりの増加で他の郵便事務に支障をきたすようになったので]
明治三十九年の年末から年賀郵便特別扱いということを始めたのである。
   その以来、年賀郵便は年々に増加する。それに比例して回礼者は年々に減少した。それでも明治の末年までは昔の名残りをとどめて、新年の巷に回礼者のすがたを相当に見受けたのであるが、大正以後はめっきり廃れて、年末の郵便局には年賀郵便の山を築くことになった。
(略)
忙しい世の人に多大の便利をあたえるのは、年賀郵便である。それと同時に、人生に一種の寂寥を感ぜしむるのも、年賀郵便であろう。

  • 文章比較

大正五年の文

 今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部の若葉を音もなしに湿らしている。家々の湯の烟も低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光を微かに洩すかと思うと、またすぐに睡むそうにどんよりと暗くなる。雞が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀っても、上州の空は容易に夢から醒めそうもない。
(略)
桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓が湯にゆく。白い鳩が餌をあさる。黒い燕が往来中で宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く。梟が鳴く。門附の芸人が来る。碓氷川の河鹿はまだ鳴かない。

大正八年倫敦

アヴォンの河のほとりを散歩すると、日本の卯の花に似たようなメー・トリーの白い花がそこらの田舎家の垣からこぼれ出して、うす明るいトワイライトの下にむら消えの雪を浮かばせているのも、まことに初夏のたそがれらしい静寂な気分を誘い出されましたが(略)
[船で河下り]
もう八時頃であろうかと思われましたが、英国の夏の日はなかなか暮れ切りません。蒼白い空にはうす紅い雲がところどころに流れています。(略)
寝転びながら岸の上をながめていると、大きい栗の梢を隔てて沙翁紀念劇場の高い塔が丁度かの薄紅い雲の下に聳えています。(略)
空と水とはまだ暮れそうな気色もみえないので、水明りのする船端には名も知れない羽虫の群が飛び違っています。

明治三十四年

 夏の日の朝まだきに、瓜の皮、竹の皮、巻烟草の吸殻さては紙屑なんどの狼籍たるを踏みて、眠れる銀座の大通にたたずめば、ここが首府の中央かと疑わるるばかりに、一種荒涼の感を覚うれと、夜の衣の次第にうすくかつ剥げて、曙の光の東より開くと共に、万物皆生きて動き出ずるを見ん。

えー、まだあったんですけれど何をどうしたのか消えてしまいました。
ガックリきたので、これでおしまい。
明日元気があったら郊外転居のとこだけでも付け足したい。