ヴケリッチ日本通信

 

ゾルゲ事件ソ連のスパイとして逮捕され獄死したヴケリッチが特派員として祖国ユーゴスラヴィア日刊紙に送った記事。

1933年8月


満州情勢

 ただ、満州では中国系住民が多数を占めているという主張は文字通りには受け取れない。満州の人口は最近の二十年間に三分の二ほど増加した。満人王朝が倒れる以前からのモンゴル、満州タタール、中国人などの原住民は、満州国潜在的基盤だが、最近移住してきた中国人も大半は各地からの避難民で、日本の影響力の拡大にとって越えられない障害ではない。民族意識がきわめて低いからだ。中国人は、いわゆる中華民国の領内でも統一的国民ではない。満州では二十世紀初頭からロシアや日本の影響で統一的な国民感情が発達しにくかったし、さらに故張作霖やその子の張学良のような冒険主義的な将軍たちの軍閥支配の結果、この民族が民族意識を持つことはほとんど不可能だったのだ。内戦の恐怖や権力者による略奪、自然災害、揚子江流域を荒廃させた飢饉などを逃れて毎年のように移住してくる避難民は、祖国に対し全く感激がない。彼らはみな農民哲学を身につけていて、新体制が最初にどんな手を打ってくるか様子を見ている。住民の消極的抵抗はきわめて小さく、新政権が好感をもって迎えられることさえ稀ではない。
 抵抗はむしろ前政権から残った官僚の中から起こる。例えば、逓信省職員の九割が新政権の権威に服すべきときに退職してしまった。
 軍部の抵抗も相当のものだった。

1933年9月

  • 「外人ホテル」の一日

(夏央&ジローで漫画化キボンヌw)
日本人ウエートレスは美人揃い

 そのうちの三人、トシコとチヨコとアヤコは、近くの短大家政科の学生だ。自由時間を利用して、実習のため、このホテルで働いている。トシコは全くの貴族で、色白で細おもての顔や繊細な手は、昔の浮世絵のモデルから拝借してきたみたいだ。彼女の話し方は上品で複雑なので、日本語の上っ面をなめただけの我々欧州人にはさっぱり分からない。(略)チヨコは日本人形の姿を借りた小悪魔だ。だれに対しても微笑みかけるが、お世辞はまるで受けつけない。客のだれかがちょっとしたプレゼントでもしようものなら、開けもしないでそのまま母親のところに持っていってしまう。

スコットランド哲学者ラフィは語る

 「この要塞に囚われの身となっているのは僕だけじゃない。(略)
 あちらの和服を着た肌の黒いアジア人、あれが有名なパトラルだ。インドの若い民族主義者として十八年前に来日した。英国が引渡しを要求したが、日本は渡さなかった。アジアの連帯ってやつだ。アジア人だし、日本人のように話し、生活し、振舞う。でもね、インドの戦士の気性はやはり隠せない。芸者屋で酔っ払う。人妻とスキャンダルを起こす。そのうちだれからも相手にされず、忘れられてしまうだろう。ご覧のように、職業的殉教者の生活も、いつも薔薇色とはいかないのさ」

サンフランシスコからの老婦人

 「ホテルで聞いたんだけど、今晩はアメリカの飛行機が東京を空襲するという想定なんですってね。馬鹿みたい。私の甥はアメリカでパイロットなのよ。ここに来て女子供の上に爆弾を落そうなんてしたら、私がただではおきませんからね。でも、信じて、これはデマよ。私たちアメリカ人は紳士なんですから」

防空演習の夜にキス

外では、探照灯の太い光の束が上空をゆらゆらと照らしている。空中に巨大な蜘蛛の巣が張られ、敵機を金蝿のように捕らえようとしている。(略)
 下の通りは静かに闇に沈んでいる。ポンポン。バン、バン。夕夕夕夕夕……。我が町の防衛戦がいよいよ始まった。
(略)
だれかが静かにドアをノックしているのだ。開けてみる。(略)
恥ずかしそうに顔を袖で隠しながら、私のアヤコが突然、現れたのだ。丁寧に、だがおずおずと、挨拶を交わし、暗い部屋に腰をかけた。
 「私、とても怖いんですの。でも、あのお方、あのお客さまのほうがお好きなのではないかとお尋ねしたくて」とささやく。
 「あのお方よりは、君のお姿のほうがずっとお好きです」と、知っているかぎりの美しい日本語で記者は誓った。
 暗闇の中で彼女が優しく微笑んだような気がした。そこで鄭重に聞いてみた。
 「キスをしてもよろしいか」
 「ご存知とは思いますけれど、私ども日本娘はキスとはなにか存じ上げませんの」
 そしてあどけなく、しかも真面目にキスしてくれた。

33年10月

  • 日本農民の苦境

内地米より五割安い台湾・朝鮮からの植民地産米、満州からも農産物。

政府としては、本土の農民の要求を受け入れて朝鮮米の輸入を禁じ、それによって朝鮮に対する長年の宥和政策に致命的な打撃を与えるようなことは、なかなかできることではない。

農民は都市住民の二倍の税金を払っているのに、農民の生産物は関税による保護を受けず、逆に植民地の農場の競争にさらされている。

未来がないから戦争だ

[1934年『現代』九月号・有馬清芳予備役大尉の論文]
 「結果は明らかだ。農民の絶望は強まり、初めは経済的な敵として工業に向けられていた感情が、今や工業のせいではないことが分かって、外国の不当な圧力に反発し、真の国粋主義的感情になっている。農民層には将来の経済的展望は暗く、望みのないように見え、戦争の苦しみは平時の苦しみよりひどくはなく、国家が立派に戦争に備えるのに必要な犠牲は、絶望的な未来を手をこまねいて眺めながら払う犠牲より大きくないとさえ思われるのだ」
 それでも有馬大尉は戦争にはならないと信じている。戦争はどの国にとっても危険が大きすぎる。だが、農民層の感情は日本政府に著しく国粋主義的な政策をとらせる要因となろう。

明日につづく。