「迷宮の将軍」の前に

 

迷宮の将軍

迷宮の将軍

「迷宮の将軍」を少し読みかけて、落ち目の将軍がどういう状況にあるかというのはおいおい説明されていくのか、小説の仕掛けなのか、それとも周知の事実なのかどうなのかと後ろを見ると将軍はシモン・ボリバルのことらしい、らしいといってもこちとら劣等生なのでその固有名詞を見ても遠い目。付録の年表を見ればラテンアメリカ独立に活躍したことはわかるがそれがどうして落ち目なのかいまいちよくわからない。これは一応予習した方がよいのだろうかとこれを借りてみた。

シモン・ボリーバル―ラテンアメリカ独立の父

シモン・ボリーバル―ラテンアメリカ独立の父

 

莫大な遺産を相続しベネズエラ屈指の資産家となったボリーバルだが私財を投げ打って解放運動に邁進。
1812年人口100万のベネズエラで死者3万人の大地震

灰燼と化した首都の街角で、王党派に属している聖職者たちは、「フェルナンド国王に背いた天罰だ!」と触れ回っていた。この言葉は、地震で家財を失って悲嘆に暮れ、呆然となっている市民を恐怖に駆り立てるとともに、無知な人々の心に迷信を植え付けるのに役だった。このときサン・ハシントの邸宅にいたボリーバルは、恐れおののく大衆に向かって、こう叫んだ。「もし自然がわれわれの独立に反対するなら、われわれは自然と闘い、それをわれわれに従わせるだろう」。この言葉は、カラカスのボリーバルの生家の表の壁面に見ることができる。

何故落ち目に

大統一を成し遂げた将軍が何故落ち目になったかという話へ

 イスパノアメリカの独立は、1824年12月9日アヤクーチョでの勝利とともに達成されたが、戦争が12年間も続いたので、その代価は少なくなかった。
(略)
 兵士たちに支払わなければならない給料が遅延したため、各地で蜂起が起きていた。また彼らに土地の分配を約束していたのに、それが実行されなかった。その一方で、将官たちには広大な土地が引き渡されて、彼らは大地主になっていた。先住民は税金を支払わなくなっていたし、黒人奴隷は完全解放を要求して反乱を企てていたのである。
 将官たちは、軍功に見合った昇格を求めていた。聖職者たちは、国教の分離にともなって国家の保護が得られなくなり、民衆を扇動して反政府活動を展開していた。スペインの植民地支配に終止符が打たれたとはいえ、王党派に属していたクリオーリョや下層の人々の勢力は侮りがたく、彼らはスペインによる植民地の再征服を夢見ていた。またクリオーリョ上層部も、中央集権派と連邦派に分かれて、権力闘争を続けていたのである。
 ペルーのアリストクラタと呼ばれるクリオーリョ上層部は、表面的にはボリーバルにこびを売っていたが、裏では彼の追放を画策していた。彼らは、高位の聖職者や将軍らと密議して、土地の接収と兵士や先住民への分配を阻止しようとしていた。また大半がかつてスペイン軍に属していたペルー軍の方がコロンビア軍よりも御しやすいと考え、コロンビア軍の撤退をはかろうとしていたのである。

サンタンデールとの対立

彼を迎えた大コロンビアの首都の空気は一変していた。表面的には歓迎の意を表していたが、冷たい視線が彼に注がれていたのである。
 ボリーバルを迎えたサンタンデールは、ベネズエラ州長官パエス将軍が共和国の意向に従わず、分離運動を続けていると報告した。
[将軍は内乱回避のためパエスと妥協](略)
 しかしボリーバルとパエスの和解はサンタンデールを怒らせ、二人の関係は悪化し決裂することになる。それと同時に、今度はサンタンデールがヌエバグラナダの分離を画策しはじめたのである。性格的にみても、ボリーバルとサンタンデールは対称的であった。前者は理想主義者で思想家であるのに対し、後者は現実主義者で実務家である。
 追求する道も、異なっていた。ボリーバルが中央集権主義を指向していたのに、サンタンデールは連邦主義の国家を目指していた。連邦主義は、大コロンビア共和国では地方主義に通ずる。これは、各地域のラティフンディスタやカウディーリョの利益を代表するものであった。これに反し、中央集権主義は軍隊や下層の人々の立場を擁護するものであった。スペインの植民地支配が終わった現在、今度は二つの利害の対立が抗争と分裂を生み出すことになったのである。

1828年カーニャ会議。連邦制への移行・大統領権限を縮小しようとするサンタンデール派が優勢

情勢を不利とみたボリーバル派は、最終段階に入る前に議場から一斉に退場し、このため議決をおこなう定数が不足して、会議は流会になってしまった。ボリーバル派の強引な態度は、軍隊を掌握していたことによるものであった。(略)
 6月24日ボゴタに帰ったボリーバルは、一種のクーデター的措置をとって臨時政府を樹立した。そして「独裁体制」を実施し、サンタンデール副大統領を解任した。次いで8月27日ククタ憲法を停止し、それに代わって「組織法」を発布し、解放者・大統領の名において独裁制を強化することになったのである。
 この独裁制について、歴史家の間に賛否両論がある。それをボリーバルの反動化とみなす見解がある一方で、大コロンビア共和国を守るためのやむをえない措置であるとする意見もある。

ボリーバル暗殺未遂、

サンタンデール国外追放、で事が収まるかと思えたが病状悪化でボリーバルが大統領を辞任すると求心力を失った大コロンビアは崩壊の一途。

[辞任を表明した]「みごとな国会」以降、ボリーバルはボゴタ郊外のキンタ・デ・フーチャに隠棲した。その後市内にある陸海軍大臣ペドロ・アルカンタラ・エナン将軍の邸宅に移ったが、これはボゴタでボリーバルを中傷・誹謗するビラが撒かれはじめ、身辺の警護に当たる必要が生じたためである。ビラには「ベネズエラ人は出て行け」、「独裁者はくたばれ」とあからさまにボリーバルを邪魔者扱いする言葉が書かれていた。
 祖国ベネズエラから帰国禁止を言い渡され、ヌエバグラナダからも退去を求める声が出はじめた状況の中で、ボリーバルに残された道はただ一つ、ヨーロッパヘ亡命することであった。新政府は、ボリーバルの安全の保証と国内の治安維持とを考えると、ボリーバルに出国してもらわなければならなかったのである。
 1830年5月7日、ボリーバルはマヌエラに別れを告げた。同行を求める彼女に対し、「君はまだ若い。私はもう廃人同様の体だ。君を連れて行く訳にはいかない」と彼女の願いを拒否した。ボゴタを出発する翌朝、街では「ロンガニーサ(ソーセージ)!」、「ロンガニーサー!」とののしる声が聞こえた。ボリーバルの細面とやせ衰えた病躯をやじる言葉であった。
 5月8日から始まり12月17日にいたる旅は、ボリーバルにとって最後の旅となった。この旅の足跡は、ガルシーア・マルケスの『迷宮の将軍』に克明に描かれている。

マヌエラ・サエンス

 マヌエラは(略)奔放で妖艶で気性の強い女性であった。ボリーバルと出会ってからは愛人、秘書、同志として8年間行動をともにし、後述のように1828年ボリーバルが危うく暗殺されそうになったとき、気丈にも暗殺者たちと渡り合って、彼を救うことになる。
 しかし彼女は、ボリーバルの死に目に合えなかった。1834年ボリーバルの政敵であったサンタンデール大統領によって追放され、ボリーバルのスポンサーであったヒスロップの支援でジャマイカヘ亡命した。翌1835年ペルーの太平洋岸のパイタヘ移り住んだ。(略)
 マヌエラはそこで人知れず静かな生活を送っていたが、彼女の過去に関心を寄せていた『白鯨』の作者ハーマン・メルビルが1841年に、イタリア独立運動の指導者ジュゼッペ・ガリバルディが1851年にそれぞれ彼女の寓居を訪れている。