みんなCM音楽を歌っていた―大森昭男ともうひとつのJ‐POP
- 作者: 田家秀樹
- 出版社/メーカー: スタジオジブリ
- 発売日: 2007/08/01
- メディア: 単行本
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大瀧詠一『サイダー'73』
上司に女性コーラスにしろと言われるも、大瀧ファンの担当者は代替曲が間に合わないという理由をつけて一回オンエア、話題になってめでたくボツ回避。
作詞家の伊藤アキラは二回目に大森昭男から電話を受けた時、大瀧詠一からの“注文”を聞かされた。
「始まりの音は母音の“あ”で始めてくれということでしたね。三音四音の組み合わせで最初は“あ”。自分でも歌う人ですからイメージがあったんでしょうけど、かなり厳しい注文でした(笑)」
なぜ“あ”だったのか。(略)
大瀧詠一はそんな質問に、「まだ現役を続けるつもりだから」と笑って明かそうとしなかった。
タイアップ戦争
70年代後半“資生堂対カネボウ”開始
77年資生堂売上げ2700億宣伝費100億
レコード業界売上げ2300億宣伝費100億
資生堂一社でレコード業界全体を上回るわけで、当然レコード業界は騒然となった
ミスターミュージック吉江一男
80年代の初め、専属作家として契約してしていたのは4人だった。近田春夫、茂木由多加、佐久間正英、杉真理である。
「近田春夫は、僕が八木正生さんのところに弟子入りした時に三ヵ月遅れでやってきたんですよ。彼はまだ中学二年生でした。その頃からの知り合いなんて、『専属になれ』って誘ったんです。
- 「今の君はピカピカに光って」
演奏は作曲の鈴木慶一つながりで、ナント、PANTA&HALのメンバー。
三木鶏郎、いずみたく、小林亜星
「日本の広告音楽の流れは、三木鶏郎の系列から出発した世代と、それ以降に分かれており、後者の代表が小林亜星だった」
「音楽で言えば、鶏郎先生は、やっぱり冗談工房から始まっていて、たくちゃんはうたごえ運動ですよ。僕はアメリカンジャズとポップスですね。二人ともラジオ時代の人だし、音楽だけ作れば良いというところがあったでしょう。僕たちは、ラジオからテレビに変わる時代だったんで映像とコラボレーションが出来ないといけなくなった。僕らの頃から変わり始めましたね」
小林亜星は、「コマーシャル界で鶏さんと関係がないのは僕だけ」と言いつつ、前述の二人と自分の違いをそう分析して見せた。
ミキサーは語る
「僕はずっとカーステレオをつけなかったですね」
と言うのは伊豫部富治だ。
「クルマの中で音楽は意識して聴かなかったですね。影響されるんですよ、ものすごく。大体、カーステレオとかラジカセっていうのはよっぽどひどいものでない限り良い音に聞こえるんですよ。だから妙に満足してしまうんですね。いまの若いミキサーが卓の上にラジカセを置いてたりするのを見ると馬鹿じゃないかと思う。あれで聴いて良くない音なんてプロの音じゃないですから」
田中信一は「ウォークマンは聴いたことがない」と言う。
「基本的にへッドホーンで音は聴きませんから。時の流れで、そういう聴き方をしないといけないんでしょうけど、耳を守りたいという本能も働いたのかな。(略)生で聴く、次は良いオーディオで聴く、ヘッドホーンは最後ですよね。耳の側で鳴ってるというのは異常だと思いますし、最低の音ですよね」
(略)
プロツールスにしても、確かに誰でも録れますけど、そのレベルは違いますからね。生のマイクロフォン、へッドアンプの使い方を知らなかったら、プロツールスを使ってもちゃんとした音は録れないんですよ。テープレコーダーの代わりですから。やっぱり生の音を知らないと。あの中で全部完成させようと思うと無理がありますよね」
トリローのギャラ
「それはもう本当にすごかったですよ。私が新入社員で入った頃に電通に打ち合わせに行ったんですけど、立派な応接室で重役やスポンサーの偉い人が出てくるんですよ。今度、こういうことでコマーシャルソングをお願いしたいんですという話を聞いて、終わってハイヤーに乗ったらもう作品が出来てるんですよ。打ち合わせをしている間に出来ちゃってるんです。それで一曲50万はくだらないんですよ。それでも並んで買いに来ましだからね」
大卒初任給が1万3000円か1万5000円の時代である。
「こういうのは書けない」とビートルズで筆を折ったトリロー
「ビートルズの分析を先生がしましたよ。ビートルズの音楽はスコットランドの音楽のこの辺のリズムを取っているんだとか。私はそんな話をされても分かりませんから、小林さん*1がいたからだったでしょうね。お酒を飲みながら盛んに分析をされていらしたのを覚えてます(略)
他の作曲家とか他のアーティストのことを云々するということがあんまりない人でしたから珍しいなと思った記憶があります。先生はものすごい知識がおありだからあの曲はクラシックのあの曲のあの辺を取ってるとか、何とか民謡のあそこだよとか、あそこのコード進行はだらしないとか。説得力があるんですよ。
(略)
自分の時代じゃないというようなことは相当早くから思っていたみたいですよ。『三芸』の後半か解散した頃でしょうか。『みんなはまだ俺が成層圏を飛んでいると思ってるけど、もう地べたスレスレだよ』っておっしやってましたもん。
大瀧詠一インタビュー
[コロムビアとの契約]3年間で12枚。すごいでしょう。アルバム12枚、シングル12枚ですよ。そんな契約だと思わなかったんですけどね。(略)
ネタ枯れしますよ。やっただけでもすごいでしょう。みんなに叩かれましたし、売れ行きもどんどん落ちて行きましたし、最後はやけくそになって音頭だけやって止めようと思った。だからCMでは割合耳なじみの良いものをやってたんだけど、コロムビアの方ではやらなかったの。だって、なんとかこの三年間の契約さえ終わればこれから自分のサウンドでやれるから、それまではやるまいと決めて、音頭路線とか、売れないものの路線の方に究極に走ったんですよ。その年季明けが78年11月25日だったんですよ。そうか、「サイダー'79」のレコーディングは、その前日だったのか。
(略)
あの時は、いま言ったようにネタ枯れだったのでオリジナルを作る才能の余裕がなかったの。大森さんからこういうタイプのサウンドをっていうスケッチだけでも良いからって言われたのが9月だったんで、外国曲のカバーでデモだけ録ったんですけど。これ、「A LONG VACATION」のサウンドなんです。「A LONG VACATION」のサウンドは、すでにこの時にやってるんですよ。
(略)
「LET'S ONDO AGAIN」が出た25日に、改めて契約書をよく読んだら、この後も二年間はいままでの作品はコロムビアが発売出来るっていう契約だったの。つまり、80年11月25日まではコロムビアから旧譜が出る。その間に新譜を出してしまうと市場の混乱が起きると考えて、80年11月25日の年季明けまで待ったんですよ。
*1:はやし・こば